彼が優しく慰めてくれるのをいいことにミレーユは混乱のあまり逆上した。だが、理不尽な応対に怒りもせずリヒャルトはミレーユを身体ごと振り向かせた。 「──俺が一瞬で忘れさせてあげるから」 随分近くで声が聞こえた気がした──と思った時、唇にやわらかいものがかぶさってきて、ミレーユは驚いて目を見開いた。 頰をくすぐるさらさらとした髪の感触と唇から伝わる熱に、これがどういう状況か気づいて慌てて離れようとするが、彼はつかんだ腕を離さなかった。 「……っ、ちょっと、ま、待って……」 つい引き込まれそうになりながらも、なんとかもがいて振りほどく。あまりにびっくりしすぎて涙も止まってしまった。 「こ、こういうの、しちゃいけないんでしょ。約束したって言ってたじゃない」 結婚するまではしないと決めているのだと、彼自身が悲愴な顔つきで決意を語っていたのに。実際に彼は、求婚してくれた翌朝から今まで一度も唇に触れてはこなかったのだ。 しかし、ミレーユのぎくしゃくとした指摘にもリヒャルトは表情を変えなかった。 「いいんですよ。これは消毒だから」 「しょ……」 目を丸くして言い返そうとするが、その言葉はすぐに彼の唇に呑みこまれてしまう。 乱暴なところなど微塵もない口づけなのに、なぜか逃げられなかった。長い腕に抱きしめられて窒息しそうなくらい胸が詰まる。 やがて唇を離し、リヒャルトが細く吐息をこぼした。 「きっと傷ついているだろうとは思っていましたが、ここまで思い詰めているとは思わなかったんです。婚約しないで家に帰るだなんて……。そんなことを言われたら黙っていられるわけがないでしょう。生涯の愛を捧げると誓った人なのに」 聖堂内の淡い明かりが彼の瞳にも灯っている。ミレーユは何も言えず、それをすぐ間近で見つめていた。 知られたら、リヒャルトに怒られる。嫌われる。ただそれだけを恐れていた自分がなんだか恥ずかしくなった。 彼の指が頰をすべってくる。思わずミレーユが身体をすくめると、軽く唇で触れられた。 「──忘れましたか?」 そのままの距離で訊かれ、赤面しながらもなんとか考える。忘れさせてあげるとはこういう意味だったのかと、その時初めて気がついた。 「う……ん、忘れた気がする……」 ぽつりとした答えに、リヒャルトがかすかに笑った。 きっと内心フィデリオのことは穏やかでないはずなのに、怒りを露わにすることもなくミレーユの気持ちを最優先に気遣ってくれる。そんな素晴らしい彼にミレーユはぼんやりと見入っていたが、ふと気づいて手を伸ばした。 「これ……、口紅がついちゃったわ。ここ」 食事会に行くためにめかしこんでいたため、化粧もしっかり施されていたのだ。夜だからと濃いめの色を塗られていたので、リヒャルトの口元に付いているそれも目立っていた。 「いいです。どうせまた付くんだから」 「え」 ぬぐってあげようとした手を握られ、口を開く間もなく唇が重なってくる。それまでの労るような優しい感触と違い、隙間から愛しさがそそぎこまれてくるような口づけに変わってきて、本当に溺れそうな錯覚に陥った。 もはや忘れる云々の話ではなくなってきて息も絶え絶えに声をしぼりだす。 「も……大丈夫、口がとける……」 するとリヒャルトは優しく微笑んで言った。 「とけるようにやってるんですよ」 「……!?」 どういう意味だ、とミレーユが目をむいた時──大聖堂の扉が突然開いた。 時は少しだけ遡る。