「――え」 合羽女の膝蹴りを受けて悶えていたアロマは、頭上から合羽女がこぼした小さな声を聞き取った。 それは、何か有り得ないものを目にした時に出るであろう、困惑と恐怖の声。「どうして……!?」 そこに、焦燥が加わる。 合羽女が目撃した、ここにいるはずのない男は、降りしきる雨の中を静々と歩いていた。「――どうしてって、何がだ?」「…………!」 男の声を聞いた瞬間、アロマの目が大きく見開かれる。 それは、間違いなく、一年以上も前からずっと、彼女が恋焦がれていた声。「何故お前がここにいる!? 今頃は自宅でッ――」「鯵釣り行こうと思って」「はぁ!?」 セカンド・ファーステスト――合羽女が最も出くわしたくなかった人物だ。 合羽女は、明日の天網座戦が控えているにもかかわらず何故こんな雨の中釣りに行こうと思い立ったのか、だとしても何故こんなところに来ているのか、そもそもどうやってこれから釣り場に行こうというのかと、一気に噴出したツッコミを瞬時に飲み込んで、興奮状態のまま言葉を続けた。「ふざけないでよッ……計画が台無しじゃないッ」 ぶつぶつと、独り言のように吐き捨てる。「いっ……!」 アロマの手首が強く握りしめられ、アロマは思わず悲鳴をあげた。 合羽女の力はかなりのもののようで、その手首は赤く腫れあがっている。セカンドは「やめてやれ」と一言、声をかけた。「…………」 そこで、ニィ――と、合羽女は嫌らしく笑う。「ちょうどいい、紹介するわ。こいつは“人質”。お前、明日の試合、負けなさい」「なるほどそういうことか」「あら、理解が早くて嬉しいわ」「嫌だと言ったら?」「……こいつの指の爪、一つずつ剥いでやる」「怖っ」 セカンドが眉をしかめて嫌そうな顔をすると、合羽女はグイッとアロマの腕を引っ張り上げ、後ろに三歩後退する。 直後、セカンドの後方からファンクラブの女子生徒六人が現れた。「――え゛!?」 流石と言うべきか、六人全員が、その後ろ姿だけで合羽女と対峙する男の正体を目ざとく見抜いたようで、驚喜の顔を見せる。 しかし、今はそれどころではない。副会長が拉致される瀬戸際なのだ。「せ、セカンド様! アロマさんが連れ去られそうなんです! 力を貸してください!」「あっはは! ほんっと馬鹿ねぇお前ら! 無理よ無理! いくら五冠でもこれだけの人数を護りながら戦えるわけないでしょ!?」 合羽女が笑いながら懐から取り出したのは、短剣。 彼女ほど攻撃力の高い者なら、スキルを使わずに短剣を急所へ突き刺しただけで、HPとVITの低い魔術師である彼女たちにとっては致命傷になりかねない。 一見して、人数有利の場面……だが、しかし。 注視すべきは人質。今、この場において、それは七人へと増えたのだ。「おおっと! 逃げようなんて思わないことね。お前らが一歩でも動いたら、こいつの首がパックリ割れるわよ」 ファンクラブの女子生徒たちは、合羽女の一言で、攻めることも逃げることもできなくなった。 足手まといだ。よりによって、敬愛するセカンドを邪魔してしまっている。彼女たちは、何も考えず無防備に追跡してしまったことを俄かに後悔した。「あ、貴女……一体、何が目的なの……?」 不意に、手首の痛みに顔を歪めながら、アロマが口にする。 合羽女は、しばしの沈黙の後、こう答えた。「……全ては、プリンス様のため。プリンス様に愛していただくため」 陶酔しているような、蕩けた声だった。