エキドナのゆるいビンタが俺の頬に打ち込まれた。 何が起こったのか分からなかった。閉じていた目を思わず開け、残った右腕で頬を抑える。エキドナが俺を見下ろしていた。 豪奢な赤いドレスのいたるところが無様に破けている。その隙間からにゅっと脚が伸び、俺をぐりぐりと踏みつけた。「――やはり、やめた。面倒だ」 なに? なんて言った? こいつ?「人間界との和平だと? たわけが! 我を誰だと思っておる。魔王だぞ。魔王エキドナだ! 魔界の王であり、女王! どれだけ多忙だと思っておる! そんな雑務をやっている暇などありはせんわ!」「はあああ!?」「そういう事で勇者……いや、もはやただのレオだな。レオよ、喜ぶがいい。 貴様を魔王軍にて正式採用してやる。賢者の石の持ち主として、3000年生きた唯一の存在として、魔界と人間界の和平特使となるがいい」「なるがいいじゃねえ!」 思わず吠える。エキドナの脚が後ろに引かれた。 かわりに、砕かれた竜鱗も痛々しいエドヴァルトの巨体がゆっくりとこちらへ迫ってくる。手には竜族に伝わる金剛不壊の聖剣、カラドボルグ。「おい……おい、エドヴァルト。この馬鹿を説得しろ。 いや違う! はやく賢者の石を抉り出せ!」「うん? 何を言うのかレオ殿。 貴公にとっては残念であろうが、吾輩もエキドナ様と同意見である」 あと200秒。愚か極まる竜将軍はカラドボルグを地面に置くと、その隣にどっしりと腰を降ろした。 バカ! 大いなるバカ! バカすぎる!「先日の一件でわかったが、吾輩の了見はあまりに狭い。まだレオ殿に教えて貰いたい事が沢山ある。正直に言って、いま貴公に死なれると大変困るのだ。 ……そもレオ殿、貴公は自分の特別さを自覚していないのでは?」「と、特別……特別?」「多くの智慧、多くの武勇。 エキドナ様の言う通り、この世で3000年も生きているのは貴公だけよ。 貴公以外の誰に、魔界と人間界の橋渡しが務まるとお思いなのか?」「誰にって……そりゃエキドナに……」 エキドナを見る。 ぷいと顔をそらされた。ふざけやがって。「それに、娘だ。ジェリエッタがどうもレオ殿を気に入っているようでなあ。 父として娘を悲しませるのは辛い。どうか、いま一度考え直しては頂けぬか」 エドヴァルトが地面に両手をつき、丁寧に頭を下げた。 もしかして、こいつは神話級のバカなんじゃないのか。悲しむとかそういう問題じゃないだろ。世界の危機……俺の覚悟…… 呆れて二の句が告げなかった。あと170秒。なんとか言葉を絞り出す。「バカかお前……そういう問題じゃ……」「――バカは! にいちゃんでしょ!」「ぐぼあ!」 小柄な影が飛び込んできた。リリだ。 万力のような力で俺を抱きしめると、耳元で大声を……うるせえ! 引き剥がしたいところだが、ただでさえ重症なところに動力源からの魔力供給を断っている状態だ。リリの怪力に抗えるわけもなかった。「どーして! どーして一人で考えて、一人で終わらせちゃうの! なんでお友達と協力きょうりょくしようとしないの! あたし、にいちゃんから一言ひとっことも相談そーだんしてもらってない!」「なんでって、お前、そりゃそうだろ…… こんなこと誰に相談しろっていうんだよ」「あたし!」「ぐええ」