短く鋭い、奇怪な音。それが響いた瞬間、何かが剣を吹き飛ばした。「な……」「ポルタ嬢!!」 ガシャンと鳴った音に糸が切れたように、ぺたんと尻もちをついたアウローラの向かいに、白銀の影が差す。呆然としたまま見上げれば、青い星が二つ。ぱちぱち、瞬きしてゆるりと焦点が合う。フェリクス・イル・レ=クラヴィス。「大丈夫か?!」「は、い」 呟くように応えて、アウローラは深く息を吐き出した。冷たくなっていた皮膚に、急流が巡るように血が回る。カッと熱くなって、目眩が起こり、それが収まると頭がようやく回転を取り戻した。「痛みは? 怪我はないか?」「……お、驚き、ました」 ゆっくりと視線を巡らすと、少し離れた乾いた地面に剣と、なぜか氷塊が落ちている。飛んできて、剣の軌道を変えたものはどうやらこれらしい。そういえばフェリクスは、氷の属性の魔法が得意だと言っていたような気がする、とアウローラは思い出す。咄嗟に剣の切っ先を弾いたのは、彼の魔法のようだ。 ――あんな短い音で、こんな魔法が繰り出せるとは、流石、優秀な魔法騎士。「何故観覧席から降りてきた」 ガツンと両の腕を掴まれて、アウローラは目を白黒させ、現実逃避に満ち溢れた思考の世界から舞い戻った。 恐る恐る正面を見れば、不機嫌の絶頂に美貌を歪めて、乾いた大地に膝をついたフェリクスがアウローラを睨んでいる。視界には青年と心地よく晴れ上がった青い空しかなく、瞳と瞳の距離は、彼のこぶし3つ分程もない。近い。 こんな間近で触れられるのは、あの夜会以来かしら。まだぼんやりと麻痺の残る頭で、アウローラは考えた。 生真面目で堅物で口数の少ないこの騎士は、そうやすやすと彼女に触れたりはしないのだ。清く正しいにもほどのある婚約者様なのである。 そんな態度が吹き飛んでしまうとは、これはよっぽどの事態だったのだ。一歩間違えば大怪我、それどころか死んでいたのかもしれない。急に背筋が冷たくなったアウローラはぶるりとひとつ身震いした。「近寄れば危険であることが、貴女に判らぬ筈がないだろう」 新入生を叱責する士官学校の教官のごとく、苦い声で眼光鋭く見つめてくる彼の瞳に、アウローラはじっと見入った。 青い瞳の奥で揺れる薄紫の焔は怒りか憤りか。端正な白い肌が紅潮しているのは戦いの余波か激高か。それらが形作るのは、幼子が泣き出しそうなほどのひどく不機嫌な表情だ。 今日のフェリクスはここに着いてからずっと、なんとなく不機嫌だった。しかし今は、それとは比べ物にならないほどはっきりと、機嫌が悪い顔をしている。あの、人形めいて整った綺麗な顔がこんなふうに歪むこともあるのなら、彼もやはり人の子なのだと、感嘆の思いさえ湧いてくる。 しかし、その頬に刻まれた、じわりと血の滲む赤い筋を目に映ると、彼女は我に返ったように小さく息をついた。「ポルタ嬢?」 ため息以外に反応のないアウローラに焦れたのか、低い声で呼ばったフェリクスは眉間の皺を深める。 そんなに怖い顔をしたら、貴方を慕うお嬢さんたちに驚かれてしまうのじゃないかしら。綺麗な顔で凄まれると、恐ろしいなんてものじゃあないのよ。 詮無いことを思いつつ、アウローラはドレスの隠しから、新しいハンカチーフを取り出した。真っ白なリネンに青い糸で、東洋伝来の「守護」の意匠を刺してある。今日の案内の礼として、フェリクスに渡すつもりだったものだ。 本当に大丈夫なのかと誰何する目に微笑みを向けて、アウローラはハンカチーフを握った手を伸ばした。うっすらと紫がかった青の、宵の始めの星空のような瞳がぱちぱちとまたたいて、銀色の短い睫毛を揺らす。アウローラの手が頬に触れると、青年は痺れたかのようにかすかに震え、ぎょっと目を見開いた。「な……にを、」「なにゆえ、とおっしゃいましたね」 呟いて、ハンカチーフを頬に強く押し当てる。白地にじわりと赤が染みこんで、シミひとつない美しいリネンを汚した。ピキンと硬直した婚約者殿に笑みを深めて、アウローラは囁いてみせる。「クラヴィス様が血を流されたから」 もう少し力を込めて、止血するように押し当てれば、彼は息を呑んだ。「心配になって、思わず降りてきてしまったのです」 わたくしにできるのは、貴方を心配することだけですから。 その言葉は飲み込んで、アウローラは微笑みを解く。ぎゅ、と力を入れれば、フェリクスの眉がわずかに歪んだ。浅い傷とはいえ、痛みはあるだろう。 そっと、それこそくすぐるように。慎重に慎重に。ほんの僅かに日焼けた男性らしからぬ滑らかな肌をハンカチーフで撫ぜる。濡れた髪から水気を取る時のように、ゆっくりと押さえて。