ぼやーっと呆けた頭で湯船に浸かっている。 顔が赤いのはのぼせたわけでなく、先ほど彼女から口付けをされたせいだ。 かぽりと触れ合う感触をなかなか忘れられず、つい唇へ触れてしまう。 ――そういえば、マリーも初めてだったのかな? 人付き合いの少ない僕は初めての経験で、恐らく遅いほうだと思う。しかし彼女は人嫌いとはいえ普通の可愛らしい女性であり、経験していて何らおかしくない。人間の僕と過ごしている期間なんて、そう長くはないのだ。 苦悩と共に、ぶくくと湯へ沈みかけてしまう。 どこの中学生なのだろう、僕は。 いや、25歳になって気づいたことは、いくら年を重ねても人は大きく変わらないということだ。初めての経験なのだし中学生に近しい思考でおかしくない……と言い訳しておこう。 そのとき、がらりと戸の開く音が響く。 振り返ると曇りガラスの向こうにマリーらしき影は見える。風呂場には水滴の落ちる音がしばらく響き、それから少女はぽつりとつぶやく。「ね、少しここにいても平気かしら?」「もちろん構わないよ。どうしたんだい、珍しいね」 うん、と小さく返事をし、そしてマリーは曇りガラスの向こうで腰を下ろす。長雨によってすっかり夜は冷えるようになったので、お腹を壊さないかと少しだけ心配してしまう。「ウリドラも寝てしまって少しだけ退屈なの」「そっか。明日には合流できるはずだけど、面倒臭がりだから迷宮に入ってから来るかもよ」 くすりという笑い声が返ってきて何故かほっとする。先ほどから彼女の声は不安を含んでおり、お風呂の最中でなければ顔を覗き込んでいたと思う。「……なにか心配ごとかな?」 図星だったのか、ぴくんと肩を震わすのが見える。 顔を合わせられないので気になるけれど……いや、違うのか。顔を見なくて済むから、マリーはここへ来たのかもしれない。「あの、ね。聞きたいことがあって……」「うん、なんだい?」 ほんの少しだけ見える影は、うんうんと苦悩するよう頭を揺すっている。なら僕は眠るようにじっとし、彼女からの声を待つべきだ。 女の子に勇気を出せるよう背中を押してあげたいけれど、今はまだ何を言いたいのかも分からない。 てんってんっという水滴の音はやがて止まる。「その……、一廣かずひろは初めてだった、の?」 少しだけ目を見開き、それからぼぼっと頬は熱を持ちだした。ああ、これはマズイ。直に顔を合わせなくて助かったのは僕のほうだぞ。 というよりも嬉しい。そう尋ねてくれたのなら彼女もきっと初めての経験……かもしれない。 ずりり、と湯に沈んでしまいそうになりつつ、どうにか口を開いた。「もちろん、僕はその……君だけかな」「ふ、ふーん、ふーん、なら良かった。わ、やだもう、汗をかいてしまったわ」 曇りガラスの向こうで彼女は手を伸ばし、どうやら僕のタオルを掴んだらしい。ぽすんと顔をタオルへ埋め、こちらまで頭の蒸気が見えるようだ。「言っておきますけれど、私たちの里にキスという文化はさほど根強くないの。何度も求愛をされたし、私がモテなかったわけではありませんからね」「それは見ていれば分かるよ。あの勇者候補だって君を……」 思わず口ごもる。胸のムカムカは高まり、口調を荒げてしまいそうな予感があったから。そのような感情をマリーに伝えたくない。「言ったでしょう、頭突きをしてやったって。ふふ、あの男『おぐーっ』と言っていたのよ」 気遣う声に少しだけほっとする。 どうにも僕はまだ臆病だ。ほんの少し波紋が広がっただけで、心は平穏でなくなってしまう。「そのあたり中学生だな……いや、なんでも無いんだ。ありがとう、マリー」「いいえ、礼を言う必要はないの。私にとって当たり前のことで、これからも変える気はさらさら無いわ」 なんとも頼もしいお言葉だ。半妖精ともなると僕の不安なんて簡単に掻き消してしまうらしい。「どうやら僕らはお互い初めて同士らしいね。まあ、これからも初めてのことを開拓して行きましょうか」「ええ、そうしましょう。あなたと探検するのはとても好き。それと、また一緒に苺を食べましょ」 うん、いまそれを言うのはどうなのかな。つい先ほど一緒に味わったばかりなのだし、思い出して互いにカーッと顔を赤くさせてしまうじゃないか。 そそくさと立ち去ってゆくエルフに、僕はブクブクと湯船へ沈んでいった。 ほんと、うちのエルフさんは魅力的すぎて困る。 頭のなかは彼女のことだらけになりそうだよ。