「今日ここでぼくと会ったことは、誰にも内緒だよ」 「……っ!」 突然、強い風が吹きつけてきて、思わず目を瞑る。ざわざわと葉が鳴り、それが鎮まった時には、樹上の少年は消えていた。 (いない……) あたりを見回し、セシリアは白薔薇を握りしめたまま立ちつくした。 まぼろしのように現れて、まぼろしのようにいなくなってしまった彼。けれども、まぼろしでないことはこの白薔薇を見ればわかる。 (ひょっとして、薔薇の精だったの……?) セシリアは頰を上気させ、花に顔を寄せた。 たちのぼった甘やかな香りが秋風に揺れる。それは、つい直前まで沈んでいた気持ちを不思議と温めてくれた。 初めての家出は失敗に終わり、捜しにきた騎士とともに白百合の宮へ戻ったセシリアは、また元の生活を送ることになった。 侍女たちはますます腫れ物を扱うような態度になったが、以前ほどつらくはなくなった。一つは、あの少年にもらった白薔薇があるからだ。 あとでよく見てみると、それは精巧に作られた造花だった。いつまでもみずみずしさを失わず香りまで本物のようなそれを寝室に飾り、暇さえあれば眺めて、彼のことを思い出した。 天使のように綺麗で、薔薇の精のように神秘的で。優しい笑顔とやわらかな物腰と涼やかな声と──何もかもが頭に焼き付いて離れない。また会えるだろうかと考えるだけで心がはずんだ。年が明けてもその気持ちは薄れるどころか高まる一方だった。 (まるで、王子様みたいな人……) 緑の装丁の本を胸に抱き、うっとりとセシリアは頰を染める。強く気高く美しい〝王子様〟。まさしく彼にふさわしい称号だ──。 「……い、セシリア」 (わたくしの、王子様──。な、なんてね) 「おい。──聞いているのか!?」 自分の世界に入り込んでいたセシリアは、はたと我に返った。目の前に兄のヴィルフリートがいることに気づき、ぎょっとして息を呑む。 (え……お兄様? いつの間にいらしたの?) 午後のお茶の時間、一人でテーブルについていたはずなのに。だから安心して妄想の世界にはばたいていたのだ。 言いたいことを察したのか、彼は仁王立ちのままフンと鼻を鳴らした。 「おまえが出てこないから様子を見に来てやったのだ。せっかくの誕生会だというのに、なぜ出席しない?」 セシリアははっとしてうつむく。内々で誕生日を祝うから来ないかと王妃に誘われたのは、だいぶ前のことだ。王族の住まいから離れて暮らしているセシリアは、気が引けながらも断っていた。それきり、今日が自分の誕生日ということも忘れてしまっていた。 「だいたい、何をそんなに熱心に読んでいたのだ。勉強を理由に欠席したわけでもあるまい」 ヴィルフリートがしかめ面で続ける。義理の兄である彼は歳が近いせいもあってかよくセシリアに構ってくれていた。今のように前触れもなく訪ねてくることもしょっちゅうで、言い方は乱暴だが悪い人でないのは承知済みだ。おずおずとセシリアは帳面にペンを走らせた。 『ラドフォード男爵にいただいたご本です』 「ふうん。どんな本だ」 『王子様が出てくるお話です』 「王子?」