父は播磨国御着城主・小寺政職で、小寺氏は同国守護・赤松氏の重臣の家柄で中播磨に勢力を有していた。政職の代ではほぼ独立勢力であったものの、織田信長の勢力が播磨にまで及ぶようになると織田氏に臣従していた。しかし天正6年(1578年)に織田方から離反して、織田氏に対する毛利氏方につくようになった。しかし籠城の末、天正8年(1580年)御着城は落城する。それに前後して氏職は父とともに御着を離れ英賀を経由し、毛利氏あるいは毛利氏の元にいた将軍・足利義昭を頼って備後国鞆の浦へと逃れた。
父・政職は天正12年(1584年)に没した[2]。その際、旧臣であった黒田孝高の仲介により播磨へ戻ることが許され、飾磨津に居住した。九州征伐後に黒田長政が豊前国中津12万石を与えられると、孝高の招きによって中津へ移り、客分として遇される。関ヶ原の戦いののち黒田氏が筑前国福岡藩に移封されるとそれに従い、その後は大宰府で余生を送った。与えられた石高は200石だったという。寛永4年(1627年)に大宰府で没。
子はいずれも福岡藩士となり、末裔には「職」の通字を代々称した家系(清職(きよもと)の子孫)と、後に藤田氏と改姓した家系(吉則(よしのり)の子孫)が伝わっている。現在はいずれも小寺氏を名乗っている。