その頃よりも、今の彼女はずっと近い。 重ねあう手のように、まるで一部が溶け合ったようにさえ思う。 もう一度、彼女は質問をしてくる。 それは僕らの距離が少しだけ近づいたせいかもしれない。「……最後にひとつ聞きたいわ。あなたのご両親のこと」 ぎくりと身体は勝手にこわばった。 ほんの少し心臓は跳ね上がり、それに気づいたのか小さな手は触れてくる。大丈夫だと手の甲を撫でてくれるのは、胸のうちに何を抱えているのか分かっているよう感じられる。 そして何故か、全て受け入れてくれるようにさえ思う。「ご両親のことは少しだけ、青森のおじいさまが教えてくれたの。いつもあなたの事を心配していて、帰省のときに表情が明るくなったと喜んでいたわ」 もうずっと昔の事だ。 しかし僕の口から誰かに伝えるなど初めてかもしれない。 しばらく撫でられ続けているうち、鉛のように重かった口はようやく動いてくれた。「……うん、おじいさんのおかげで僕はようやく人になれたと言うのかな。それまでおかしかった事にも気づけたんだよ」 そう、あの年月は少しおかしかったのだろう。 一歩離れるだけでそうと気づけるのに、子供というものは親しか見れない。視野は極端に狭く、そして片時も離れまいとする。「親離れという言葉があるのは、それまで親から決して離れないという意味があるのかな。ともかく親に子育ての能力は無く、そして僕も親を信じきっていた」 こうして薄暗い部屋というのも影響したかもしれない。 彼女には隠し事をしたくない、というのもあるか。 今まで思い出さないようしていたけれど、エルフからの手に導かれるまま、過ぎ去った時へと思考は向かう。「まだ記憶は鮮明では無いけれど、父はあまり家に帰らぬ人だったことを覚えているよ。そして母は己の事でさえ満足に出来ない人だった」 そして僕の居場所は家ではなく、押入れやベランダといった場所で、およそ人の居て良い所では無かった。 虐待があったとは他の人から聞いたけれどそのときの記憶は無い。 ただ、食事は極端に少なく、保護されたとき身体は痩せていたそうだ。 よくある話だとは思う。 だからこそ、そのような他の人の話を聞くたびに僕の心は痛む。 声を出して泣けない苦しさ、求める声さえ出せずにいる子というのは、昔の自分を思い出してひどく辛い。 そのように話していたとき、ふらつきながらもマリーは布団から身を起こす。 慌てて抱き支えようとしたけれど、じっとしていてと身振りで示されてしまう。そして膝立ちになった彼女は、胸を僕の顔へ押し当ててきた。 そのまま頭のうえに頬を乗せ、優しい声で囁きかけてくる。いつか絵本を読んで、僕を寝かしつけてくれた時のような声で。「だからあなたは泣いている子に弱いのね。敵だとしてもすぐに許してしまうから、少しだけ心配をしていたわ」 とく、とく、と伝わる心音に癒される何かを感じる。 ほんの少しの汗のにおい。そして彼女自身の甘い香りは、ゆっくりと僕を落ち着かせてくれると思う。 促されるよう、思い出そうとしなかった過去へと思考をめぐらせる。 母はきれいな人だったと思う。 濡れたような黒い瞳をしており、長い黒髪をしていた。 どこか世界から一歩離れているような、不思議な魅力を持っていたと今にして思う。 しかし、そんな印象は覚えているというのに、母からの言葉はまるで思い出せない。 思い出せるのは……そう、いまのように母の腕に抱かれたときの事。 それをずっと、狂おしいほど待ち望んでいた。彼女から認識され、愛情を注がれるような瞬間へずっと恋焦がれていた。 だからこそ胸へ抱き上げられた時は嬉しく、己が誇らしく、また周囲が輝いて見えるほどだった。 カーテンは柔らかく頬に触れ、さらりさらりと幾重にも撫でてゆく。 映画で言うならエンディングを迎えたようなもので、いつ祝福の音楽が鳴り響いてもおかしくない。 しかしそこで、唐突に映像は途切れてしまう。 ぶつんと乱暴に切られ、まるで劇の途中で暗幕を降ろされたようだ。 このあと何があったのか……何か恐ろしいことがあった気がしてならず、僕の心臓は乱暴に騒ぎだす。 思い出してはいけない。 これは思い出してはいけない。