ノブへと伸ばしかけていた手は、小さく聞こえた声にピタリと止まってしまった。 思わず耳を近づけてゆくと、声をだんだんと聞こえるようになる。ぴたりと扉へ押し付けると、わずかな空気の震えは伝わってきた。「……ああ~……あー……ザリ……~……」 それはそれは呪われたような声だった。 ぼそぼそと響くその声は、本当にすぐ近くで囁いていることだろう。扉を挟んだ反対側で、唇をクチャクチャと動かしているところを、見えないせいでつい想像してしまう。 ふっふっと息はゆっくり荒くなる。 肌にはじっとりと湿気はまとわりつき、汗は額を流れてしまう。「……開けてぇ……ー……」 ぞわんと背筋は震えた。その声はザリーシュが耳を澄ませていることを知っているようで、瞳はノブへと吸い寄せられる。その取っ手つきノブは、くっくっと少しずつ下へと向かって動いており、今にも開いてしまいそうだ。 こちらから開けるか、ノブを押さえるか、部屋のどこかへ隠れるか……。様々な選択肢は脳裏へ浮かび、しかしどれを選べることもなく時だけが過ぎてしまう。 きっ、きぃ、きっ…………かちん。 …………開いた、ぁ…………。 ぎぃ、と開いてゆく扉に思わずザリーシュは肩で押さえつけた。 何か不吉なことが、恐ろしいことが待っていそうで、両手でしっかりと扉を押す。全力でだ。 どっ、どんっ、どすんっ……! 猛烈な力で向こう側から体当たりをされている。肩から背中へと衝撃は思い切り伝わってきて、噛み締めた歯のあいだから空気は漏れてしまう。 この衝撃は、女子供のものではない。ぐしゃ、ぐしゃりと肉を叩きつけるような音は、どう聞いても人間のものではない。 おかしい、俺は犯人を捕まえるつもりだったのに。 どうして全力で扉を押さえているんだ。どうしてだ、ここは俺の屋敷だぞ。 しかしこの扉を開けたら、何かが俺の部屋に入ってきてしまう。そうだ、もうすぐ部下達はやってくる。それまでの辛抱でいいんだ。 ドクドク鳴る心臓がうるさくて堪らない。 しかし必死に扉を押さえていると、ようやく開放されるときが来たらしい。向こう側からの圧力は無くなり、周囲はシンとした静けさに包まれていた。 まとわりつく汗を覚え、ただ目だけできょろきょろと周囲をうかがう。 そして扉には今までと異なる音が響いた。 コン、コン……。 礼儀正しいノックの音。 どこか女性的なその響きに、彼は少しだけ安堵することが出来た。「誰だ……」 かすれた声になり、ゴクリと唾を飲む。いつの間にやら喉はカラカラだ。しかしようやくメイドは現れ、タオルや酒などを持参してくれたはず……。 いや、おかしいな、どうして俺の問いかけにすぐ答えない? コン、コン……。 返ってきたその音に、ノブを開こうとしていた手は止まる。 また心臓はドクドクと激しく血を送りはじめ、ぶわりと顔へ汗は浮かんでしまう。 クソ、俺はザリーシュだぞ、未来の勇者だ。それがなぜこんな風に自室で怯えているんだ。 殺す殺す、ぶっ殺してやる。 何か良く分からない存在を捕まえて、俺の剣で2つに切り裂いてやる! そう決意し、渾身の力で扉を思い切り開いた。 するとそこには……。「え、ザリーシュ、様?」 そこにいた女性は、血相を変えた彼の表情にビグン!と両肩を跳ねさせ、手にしていたお盆を危うく落としてしまうところだった。慌てて支え、そして何事もなかったよう身を正す。 一方のザリーシュは、どっと膝から床へと落ちていた。猛烈な安堵感、そしてようやく呼吸をすることを許されたおかげで、ぜいぜいと息を荒げてしまう。「ど、どうされたのですかザリーシュ様?」「いや…………具合が、な」 よほどの表情をしていたのか、メイドは慌ててタオルで顔を拭いてくれ、そして肩を貸して部屋のなかへと連れて行ってくれた。「顔色も真っ青で……どうぞベッドへお座りくださいまし」「ああ……。そうだ、プセリ、今夜は扉の前に立っていろ」 彼からの命令は絶対だ。決して誰にも妨げられない。 瞳の奥に困惑を見せていた女性は、やはりすぐに「はい」と簡潔に答えてくれた。 ぎしりとベッドへ腰掛けさせられ、汗を拭いたあと彼女は一礼をする。「それでは朝まで警護を勤めさせていただきます。どうぞごゆっくりお休みください」 ぱたりと閉じられた扉に、ザリーシュは大きく息を吐いた。思い切り安堵の感情を乗せて。 これで安心だ。何か起きても彼女は命をかけて対処するだろう。 食事はもういい。あとは朝まで寝て、それから考えるとしよう。 どさりとベッドへ身を沈めた。 金をかけた寝具は柔らかく、ずぶりと身は埋まる。 はあーー…………。 長く弱々しいためいきは天井へと吐かれ、そして消えてゆく。 なにかが変だ。いつもの屋敷となにかが違う。その違和感への正体に気づけず、彼はイライライラとしてしまう。 と、ごろんと寝返りをうつと、変な感触があった。 腕へとまとわりつく湿気、それに水のような何か。 ひくひく鼻を動かすと、鉄さびに良く似た匂いを覚える。身を起こし、ランプへ手をかざすとそこは真っ黒く染まっていた。ぎょっと彼の目は見開かれる。 ――布団のなかに、なにかいるのでは? 正直、あまり考えたくない。そこに何がいるのか、など。 何度か扉とベッドのあいだを視線は行き来したが「ベッドが怖い」と部下へ伝えることなど出来やしない。 ふうふうと息を吐きながら彼は布団を掴んだ。 大丈夫だ、大丈夫、いない、なにもいない。 いたとしても、俺より強い者など地上に存在しない。 ふうふうと息をしながら、ゆっくりとめくってゆく。 嫌だな、嫌だなぁー、と思いながら。 べらりとめくった瞬間、血染めの髪と女性の手足が見えてしまい、全身の筋肉はおかしな痙攣をした。ガササ!と異様な速度で布団のなかへと消えてゆく光景に、もう耐えきれなかった。「きゃああっ!!」 飛び上がり、そう叫んだ。