「何ですかその顔は」「これ、私のせいかもしれない」予想外の言葉が飛び出したが、驚きを何とか飲み込む。耳を突き刺す心音がさらに早くなる。今の私は、自分の想像以上に焦りを感じているらしい。「私の頭の中のイメージが、この部屋を大奥の時みたいに作り替えているんだと思う」「は? 何を言っているんですか? ただの人間が、私の宇宙を上塗りできるとでも?」「私もこんなことはしたくないんだけど、もう勝手に……」マスターは瞬きひとつせず、脂汗を垂らす。どうやら本当に意図しない挙動が起きているようだ。その時、空間が歪み、部屋の輪郭がひしゃげる。何を考えているのかは分からないが、少なくとも人工物の体を成さなくなる。何度も何度もこの部屋を宇宙に戻そうとしても、相変わらず何も起こらない。この部屋に特殊な処置が施されていないのならば、私はただ単に力負けしているという事実にぶち当たってしまう。「ちょっと待ってください。 どうしてあなたにこんな力があるんですか」「いやあ、ね? 私、想像力だけは自信があったから……」「今の私はサーヴァントでもありますが、れっきとした神なんですよ? 人間の妄想ごときに負けるはずが無いじゃないですか」「だってそうやって逃げないとやってこれなかったし……」「そういうことじゃなくてですね!」話の噛み合わなさに辟易する。肩を掴んで揺すっても、目を逸らしてにへらにへらと笑っているが、私を怖がっているようには見えない。言動と生理現象に一貫性が無く、感情が上手く読み取れない。スイッチの入っていないこいつは、ここまで掴みどころのない曲者だと言うのか。マスターの肩を揺さぶっていた時に、私は気が付いた。さっきからドクンドクンと響き渡っていた心音は、私のものでは無い。この部屋自体から、心臓の音が聞こえている。「そもそも、あなたは何を考えているんですか?」このマスターが何を考えているのか、想像も付かない。何となくだが、忌避すべき人類悪の片割れと、雰囲気が似ているという予感がする。面倒なことを起こされる前に、自分のペースを引き戻さなければ。しかし気が付けば、目の前からマスターがいなくなっていた。私一人だけが気味の悪い、暗く赤い部屋に取り残される。肩を掴んでいたのだから、こうも奇麗さっぱり消えたのならば、いくら何でもすぐに気付くはずだ。今の状況も目的も理解が出来ず、軽い眩暈に襲われる。ただの人間に動揺させられているという事実が気に入らない。これでは大奥の時の二の舞になってしまうではないか。私はひとつ咳払いをしてから、表情を作り直す。「おや、怖気ついてしまったんでしょうか」両手を広げ、余裕綽綽であるような素振りを見せる。あくまでも自分が主導権を握った上でやり取りをしたい。「うーんと、そうじゃなくて……」相変わらず煮え切らない返答だったが、声の出所に明らかな違和感があった。部屋の全方向から、部屋全体に声が響き渡る。マスターが自ら部屋の材と化し、私に話しかけてきているように感じる。壁に触れてみると、むっちりとした感触で、手のひらが少し沈み込んだ。大奥にはこんな部屋もあったと記憶している。今のところ、この部屋は大奥の再現に近い。「やっぱり大奥のことを根に持っていて、同じことをやり返してやろうと思っているんですか?」「大奥じゃない、いやそうなのかもしれないけど」「いい加減はっきり答えてください。 そうでないと、私もそろそろ本気を出してしまいますよ?」「できれば言いたくは無いんだけど……」その時、部屋がどくんと脈打つ。部屋の壁が拍動し、まるで生き物のように蠢き始める。目の前の、左右の、背後の壁が、私に迫ってくる。「あー、そういうことですか。 信じられませんね」全然分かっていないが、とりあえず分かったようなフリをする。少なくとも趣味が悪いことだけははっきりと分かる。血濡れの壁で私を押し潰そうとでもしているのか。マスターの愚かな行いを鼻で笑う。例え柔らかい物でも、力を掛ければそれなりの圧力になる。しかし、身体無き者に対してはその通りではない。どれだけ締め付けても、体が無いのだから、何一つ意味を成さない。そして思い通りにならない私を見て、無様に慌てればいい。ねとりとした壁が、全身に触れる。耳にこびり付いた拍動のリズムで、壁自体も脈打っている。気持ちの悪い柔らかさを保ったまま、私をゆっくりと押し込んでいく。天井が迫り、浮遊していられなくなった私は、その場で適当に寝転がる。ところが、一畳の広さからさらに狭くなったぐらいで、部屋の収縮が止まる。相変わらずどくんどくんと拍動しているが、これ以上壁が迫ってくる様子が無い。横になった体が重力に従い、軽く床に沈み込んでいる。妙に蒸し暑い空間は小さく丸みを帯び、人工物のような規則性は感じ取れなかった。「どう? 苦しくない?」「ええ。 残念でしたね」「良かったあ」