進化はコミュニティとコミュニケーションを生んだ。そしてそれらの意思疎通によって相手を操作しようというのなら、次に生物が進化する方向は明白だ。群れ全体ではなく、自分だけが得をするために、嘘をつく能力が進化する。しかし、それでは群れが成り立たないので、次に嘘を見抜く能力が進化する。すると、今度は嘘を見抜かれないような能力を……… 地球上で最も高度なコミュニティを持つ我々人間は嘘をつく天才だ。それは同時に、嘘を見抜く天才、嘘を見抜かれないように振る舞う天才であることを意味する。 心拍数のRR間隔、発汗測定、皮膚コンダクタンス反応、音声分析、表情解析……従来のウソ発見器はとても完成品とは言えなかった。臆病な人間は嘘をついていなくても緊張すればRR間隔が乱れるし汗をかくし音声もぶれる。逆に肝の座った人間は、顔色ひとつ変えずに平然と嘘を吐ける。心拍数も発汗量は変わらない。ウソ発見器や自白剤が法廷で証拠として認められないのも当然の話である。 次に、人類は脳に目を向けた。事象関連電位は思考や認知、刺激に対する脳波の電位反応である。認識した際に300ミリ秒前後にピーク値に達する脳波P300は、その人にとって意味のあるものや記憶にあるものだった場合、波形の違いとなって明るみに出る。これをもとに作られた脳指紋法は、2001年アイオワ州の法廷で採用され、2008年インドのプーナではこのテストの結果で有罪が宣告された。(*12) 他にも方法がある。真実を語るよりも嘘をつく方が脳の領域を使う。仮想の自分の視点から把握して話さなければならないからだ。前頭前皮質と、側頭葉や頭頂葉の下位領域を結びつける脳領域を動員する必要がある。これを測定することで、嘘かどうか判別するというのだ。(*13) fMRI機能的磁気共鳴画像法は脳の血流動態反応を測定する。神経細胞が活動すると周囲の酸素が消費される。これらの血液中の酸素濃度の変化を撮影し、脳内のどの神経細胞が活動しているかを明らかにできる。他にも、静脈に陽電子を放出する薬剤を注入し、その陽電子を計測して血液量の活動変化を調べるPETポジトロン断層法など、近年、脳画像技術は急速な進歩を遂げている。 ただ、これらはまだ法廷でほとんど使われていない。脳には個体差があり、それも事件発生から時間によって変化し、容疑者の嘘判別を100%に近い精度でテストできるわけではないからだ。数十年前に、ずさんなDNA鑑定で多くの冤罪事件を生み出してしまったように、中途半端な科学材料はむしろ先入観によって誤った判断を導いてしまう。そのため、現段階の技術ではまだ証拠能力は低い。 しかし、藤咲瑠奈のウソを見抜くには、十分すぎるものだった。 犯人しか知りえない情報を容疑者に見せて、動揺を調べるのとは話が違う。ただ、瑠奈が絵を見て恐怖したか否かを判別すれば良いだけの話なのだ。 瑠奈が突如として絶望に叩き込まれた日。その元凶の人物画。瑠奈が絵を描くことが得意だったばかりに、その絵を見ることで、意識せずとも老婆を想像し、記憶を想起してしまう。老婆の似顔絵を見せられた瑠奈は、記憶を失ったふりしてとぼけることは不可能だった。いくらポーカーフェイスで迫真の演技をしたとしても、脳画像にはしっかり恐怖を示す脳の活動領域が示されていたのだ。勿論、瑠奈も似顔絵を見せられても絵の一点に集中して全体像を見て顔として認識しないようにしたり、P300波を少しでも撹乱するために脳内で暗算を繰り返したり、無駄な足掻きを重ねたが、やはりそんなもので防げるはずもなく、老婆と呪いの記憶を失ってないことは詩織と担任教師にはっきりバレてしまった。瑠奈が彼らを欺くことは不可能だった。そして、二人は瑠奈が老婆と呪いについての記憶を失うまで投薬し続けるのである。