たった今、一人の少年を拳で倒したとは思えないまぶしい笑顔で手をあげると、ミレーユは瞬く間にその場から駆け去った。 呆然と立ちつくすリヒャルトの横で、直前まで娘の身を案じてうろたえていたのも忘れ、エドゥアルトはまたしてもうっとりと頰を染めて感心している。 「リヒャルト、今の見たかい? ミレーユは強いねえ。昔のジュリアを見ているようだよ! 街で見知らぬ男に金品を要求された時、ジュリアが助けてくれたことを思い出すなぁ……」 「…………」 (番長って、一体……。いやそれより、まさか、あんな調子でいつも揉め事の助っ人を頼まれているのか……!?) だとすればとても放ってはおけない。騎士道精神を通り越したところで心配になってきた彼は、ジュリアとの思い出に浸っているエドゥアルトを急かした。 「急ぎましょう。また誰かに闘いを挑まれる前につかまえなければ!」 五番街区を駆け抜けたミレーユとそれを追う二人は、やがて劇場街に入った。 ミレーユが相変わらず走る速度をゆるめないため、エドゥアルトは今にも魂が抜けそうなくらいへたばっている。リヒャルトはなんとか励ましながら進んでいたが、追跡対象が足を止めているのに気づいて声をあげた。 「エドゥアルト様、あれを──」 ミレーユが何かに心を奪われたかのように、じぃっと視線を向けているので、二人はそちらを見やった。 そこにいたのは一人の女性だった。三十歳くらいか、化粧っけはないがどことなく艶めいた空気をまとっている。 「あれは女優かな? 何をそんなに見ているんだ……?」 エドゥアルトの訝しげなつぶやきに、リヒャルトも首を傾げた。ミレーユは釘付けになっているが、そんなに見とれるほど、これといった特徴はないように見える。やけに胸元を大きくはだけているため、行き交う男たちの視線は集めているが──。 (──まさか) はっとリヒャルトは息を呑んだ。 憧れと羨望の眼差しを向けていたミレーユが、ふと自分の胸元を見下ろす。 「……あんたはいつになったら大きくなってくれるの?」 大まじめな顔で、彼女は自分の胸に向かって語りかけ始めた。 「あの人の胸とあんたの違いは何? なんでいつまでたっても小さいままなの? あたしが毎日どれだけ刺激と栄養を与えてやってると思ってんのよ!」 しまいには怒り出した。女優の豊満な胸元を悔しげに見つめ、切なそうにため息をつく。 「ママったら……『そのうち大きくなる』の『そのうち』って、いつなのよ……」 苦悩の顔つきでつぶやくと、諦めたようにとぼとぼと歩き出した。 (やはり……) 見てはいけないものを見てしまった気がして、リヒャルトのこめかみを汗が伝う。エドゥアルトも察したのか、うぅっと目をうるませて口を覆った。 「可哀相にっ……。そんなに体型のことを気にしているなんて……。リヒャルト、どうにかしてあげてくれっ」 「俺ですか!? そんな、どうすれば……」 どうにかしてあげたいのはやまやまだが、一体どうしろというのか。急に言われても困る。 「ミレーユが今言ってたじゃないか、要は刺激と栄養だっ。あと、恋をすると胸が豊かになると本で読んだことがある! 早くあの子の夢をかなえてあげるんだっ、でないと不憫で不憫で……」 「……わかりました。俺でよければお手伝いします。お役に立てるかはわかりませんが」 確かルーディがそういうことを研究中だった。いつか訊ねてみようと思いながら答えると、うんうんと涙目でうなずいていたエドゥアルトが、はたと我に返ったように顔をあげた。 「手伝う? きみが……刺激と栄養と恋? ……って、な、何をやる気満々でいるんだっ、破廉恥だぞ、きみ!」