(あの野郎……この前はよくもやってくれたわね……!) 許嫁でもないくせに、冗談まじりに唇を奪った男。本来なら抹殺してやりたいくらいだが、さすがにそういうわけにはいかないので、自分なりに復讐しに来たのだった。 (乙女を舐めてたらどうなるか、目にもの見せてやるわ!) ぐっと拳を握って気合いを入れると、ミレーユは彼に向かって駆け出した。 ズダダダダ──と回廊に靴音がこだまする。怪訝そうに振り向いたフィデリオが、猛然と走ってきたミレーユに気づいて目を見開いた。 「あれ、ミシェル先輩。久しぶりだねー。どしたの、そんなに急いで──」 「とりゃあ───っっ!!」 笑顔で言いかけた彼に、ミレーユは問答無用で思いきり回し蹴りをお見舞いした。 見事に背中に蹴りを決められフィデリオが「いてえ!」と悲鳴をあげる。あまりに突然の襲撃に彼は目を白黒させてミレーユを見つめた。 「な……、いきなり何すんの?」 「うるさいっ、この変態男ッ!」 ぽかんとしたようなその顔をにらみつけ、ミレーユは勢いよく指を突きつけた。 「きみなんか大嫌いだ! 二度とぼくに手を出すな! 次にやったら跳び蹴りして湖に落としてやるからっ!!」 憎々しげに叫んだら、ちょっとだけ胸がすっきりした気がした。 ぐるりと回れ右すると、ミレーユは一目散に回廊を駆け戻った。 一人残されたフィデリオは呆気にとられて見送っていたが、やがてぶっと噴き出した。 「やっぱおもしれーな、あの人……」 堅物な従弟が男と付き合っているらしいと知って興味を持っていたが、近頃はミシェル本人のことが気になってきている。従弟が気に入るだけあって、なかなか味のある少年なのだ。 一人でにやにやしていたら、待ち合わせていた相手に奇妙な目で見られてしまった。 「何かいいことでもあったので?」 「はは。そういうふうに見える?」 髪をかき回しながら笑って返すと、相手は上から下までフィデリオを眺め、首を振った。 「いいえ。何者かに徹底的に襲撃を受けたように見えます」 「そうなんだよ。エセルのやつ、稽古なのに容赦なくってさー」 木刀での勝負ではあったが、こてんぱんにやられてしまった。そのことさえもフィデリオの好奇心を刺激した。 「おかげでますます気になってきちゃったよ……」 彼のつぶやきは誰にも聞かれることなく、風に乗って流れていった。 服喪中ということもあり、婚約式はささやかに行われることとなった。 場所も大聖堂ではなく大公宮の中にある小さな聖堂で、二人だけで儀式をするのだという。 式に赴く前のわずかな時間、控えの部屋にいた二人のもとには親しい人々が祝いをのべに訪れていた。 「とりあえず、これ。今日の曲、できたから」 ぶっきらぼうに楽譜を差し出したのはキリルだ。自ら結婚式のために曲を書きたいと申し出てきた彼は、ひとまず婚約式のためにも作ってくれたのだった。 「もしかして、合奏するって言ってた曲?」 声をはずませて割り込んだミレーユを、キリルがちらりと一瞥してうなずく。 婚約式後の宴で二人は曲を合奏することになっている。久しぶりの兄弟の競演をミレーユも楽しみにしていた。 「ええー、どれどれ? ぼくも混ざっちゃおうかな」 もう一つ割り込んだ声に、キリルがぴくりと身じろぎする。 冷たい目で彼が視線をやった先にいたのはフレッドだった。 「必要ない。出しゃばるな」 「こう見えて、ぼくもけっこう音楽は好きなんだよ? 横笛も縦笛もラッパもいけるよ」 「きみの入る余地はない」 「まーた、照れ屋なんだから。三人で美少年楽団を組もうよ。ねえリヒャルト」 リヒャルトの肩に寄りかかりながら見上げるフレッドを、キリルはじろっとにらむ。 「俺の兄さんだぞ。なれなれしくするな」 「だってぼくの親友だもん」 フレッドは一向に応えたふうでもなく、にっこり笑う。 何か火花の散りそうな二人を見比べ、ミレーユは慌ててなだめに入った。 「ちょっと、あたしの婚約者よ!」 「はいはい、喧嘩しないで……」 仲裁どころか参戦しそうになる許嫁を、リヒャルトが苦笑して引き離す。 「ミレーユ、あなたは先に行っていてください。俺は用事を済ませてから行きますから」 「あ、ちょっと待って! キリルにお願いがあったのよ」 ミレーユがキリルを捕まえている隙に、リヒャルトのもとにはアリスとジェラルド親子が挨拶に訪れた。 普段はあまり表に出ることはないジェラルドも、今日は公子らしい服装に身を包んでいる。しかし本人はそんなことはどうでもよさそうで、リヒャルトを見てひたすら目をきらきらさせていた。 「あ、あのっ、大公殿下は、今日もかっこいいですっ。──きゃっ、言っちゃった!」 「はは……、ありがとうございます」 前から思っていたが彼のこの反応は一体なんなのだろう。疑問に思いつつもリヒャルトは礼を述べた。