「今は鬼じゃないぞ」「そんなことは分かっている。分かっていてもお前は駄目だ」頭が追い付かない。……この目の前の男、猗窩座には狛治という兄がいる。最初に会ったときは彼を猗窩座だと思ってしまったが、あまりにも性格が違うのと彼自身には可愛らしい恋人がいた。きっと、猗窩座も他のかつての鬼だった者のように人間として転生して記憶はないのだろうとおもったしそれでいいと思ったのだ。だが、これは紛れもなく猗窩座。そう、狛治に聞いた弟がいるというのは彼のことだった。一体どういう原理かはしらないが、とにかくあの列車で戦った男そのものだ。許せるわけ無かった。杏寿郎は根にもつタイプではない。今は今だとちゃんと思っている。だが、猗窩座の性格はまるで変わっていないつまり、根は鬼だったころのまま。友達などという関係じゃないことはすでに見て理解していた。「あれ、あ、兄上……?」「千寿郎。さ、もう行こう。今日は兄と帰るぞ」「待て、今日は俺が千寿郎と約束している」「認めないと言ったはずだが」「そんなことお前が決めることじゃないだろう」杏寿郎は苛立った。はっきり言って、猗窩座がどこで生きていても何をしても今の杏寿郎には関係がない。幸せになろうとするのもいいことだ。だが、身内だけは駄目だ。千寿郎は駄目だという気持ちがどうしても来てしまう。しばらく押し問答していたが、しばらく黙っていた千寿郎があの!と声をあげたことで二人ともそちらを見た。「あ、兄上すみません。ちゃんと話そうとは思ってたんです、でも」「いい、気持ちはわかる。千寿郎、俺はお前がたとえ男を好いても構わないんだ。ただこの男はやめなさい」「随分な言い草だ。もうずっと昔のことを根に持っているのか?」「そういうことではない」「猗窩座さんやめてください!兄上、お願いです。今日はそのっ、猗窩座さんといたいんです……」ぐっと押し黙った。杏寿郎は弟にめっぽう弱いのだ、半泣きでそれでも珍しく意地を通そうとする弟の頼みは聞いてやりたい。……この男でなければだ。そもそも男が相手ならせめて竈門少年だろう、随分仲がいいじゃないか彼なら大歓迎なのに。そうは言っても、千寿郎の気持ちは目の前の男にあるのだ。「……帰ったら、ちゃんと話をしよう。二人には言わないでおく」「は、い……」「悪いな」「お前は黙っていろ」杏寿郎がこんなに塩対応をするのは後にも先にもきっとこの男にだけだ。少し怒りにあてられたせいか、杏寿郎が去ってからも千寿郎は随分沈んでいた。帰ったあとが憂鬱でたまらないのだろう。「千寿郎、今日はもう帰るか?」「いいえ!だって、やっと猗窩座さんと出かけられたのに……兄上にはどうにか納得してもらいます!」拳を握りしめて言う少年に猗窩座は頭を撫でる。初めて出会ったのは、千寿郎が不良に絡まれているところを助けるというべたなものだった。その時点では、猗窩座はまだ記憶は戻っていなかったのだ。そして自分自身が強くなりたいと、猗窩座に強い憧れを抱いた目に悪い気はしなかった。暇潰しと言えばそう、暇潰しだ。両親はいない、兄は今や恋人と幸せそうにしているしさすがに邪魔するほど野暮ではない。兄のことに関しては幸せを願う一択だったのは、かつて自分自身が望んでいたことだったからだろう。決して良い性格じゃない自覚はあったし、記憶を取り戻してからは千寿郎が杏寿郎の身内であろうことはすぐにわかった。……わからないはずがなかった。記憶を取り戻したのは、千寿郎と恋人になってからだ。男同士だとか年齢だとか元からそんなことに興味がない猗窩座としては、千寿郎からの気持ちはやはり悪いものではなかった。むしろ飢えていたとさえ言えるかもしれない。『たとえば、たとえばなんですが、その、男が男を好きになるのはなんていうか、猗窩座さんはどう思いますか……?』不安げな質問の意図はすぐにわかった。千寿郎が向ける想いの矛先もわかっていた。存外この少年は分かりやすいのだ。『たとえばそれがお前の話なら、その気持ちが俺に向いていてくれればいいと思う』それは、本心だ。猗窩座は心から千寿郎がかわいいと思ってる。それに鬼だった頃の性格がそのままであっても、人間の頃の心も思い出している今大して過激な考えは持っていない。そりゃあやはり弱いより強い方がいいに決まってるが、千寿郎の前向きな強さを猗窩座は理解していた。前世ならばきっと絶対に理解せず殺してるだろう。そう思うとやはり丸くなったものだ。とにかく、千寿郎とはそうやって付き合い始めたし、記憶を取り戻したあとも変わらなかった。「俺は杏寿郎の気持ちもわかるがな」「……そういえば、猗窩座さんは兄上と知り合いなんですか?」「昔色々あったんだ。知ったらきっとお前は俺を憎むだろうよ」「大袈裟な。それに兄上とあなたの確執はお二人だけのものでしょう、僕が口出しするようなことはきっとないです」杏寿郎とは全く違う微笑みを浮かべる。ああ違うんだ千寿郎。そうじゃない、記憶を取り戻して真実を知ればお前はきっと俺を恨まずにはいられない。だからこそ、俺はお前がなにも思い出さなければいいと願っている。「た、ただいま帰りました」そろりそろり、と小声になってしまうのはなんとなく悪いことをしている気分だからだ。今は7時。中学生としては遅い時間だ。いつも5時くらいには帰る千寿郎も、今日はどうしても楽しかったのと家に帰るのが怖いのとでもたついてしまったらしい。父と母は、出かけているのだろうか。靴がない。「おかえり千寿郎、遅かったな」「あ、あにう……」静かな声だった。代わりに感じる威圧感に、千寿郎は思わず肩を竦める。駄目だ駄目だ、ちゃんと言うって決めたのだ。前を向いて、しっかり兄の目を見て言わないと。そうわかっているのに、どうして体は動かないのだろう。「あ、あ、あの」「腹が減っただろう。父上と母上が帰るのは夜中になるそうだから先に食べていよう。それから風呂にはいって、勉強をしようか。最近は一緒にいてやれなかったからな、久しぶりに見てやろう。なんなら風呂も一緒に入るか」それは、すごく嬉しい申し出だ。千寿郎は兄のことは心から尊敬していて大好きだし、でもそれより話さなきゃいけないことがある。いや、杏寿郎だってそんなのわかっているはずだ。話をそらされているのかわからないが、結局千寿郎は促されるまま手を洗いにいった。「千寿郎、今日はすまなかった」「そ、そんな……」「俺はお前が心配だったのだ。どうしても猗窩座だけは受け入れがたい。はっきり言おう、俺はあいつのことが嫌いだ。今すぐにでも別れてほしいと思ってる。男同士だからではない、あいつ以外なら俺はきっと受け入れられる」兄がここまで嫌うなんて、一体何があったのだろう。だが、千寿郎だって引けない。この二人に何かあったとしても、千寿郎は猗窩座が好きだ。この気持ちを誤魔化すことはしたくない。「兄上、ごめんなさい。僕は猗窩座さんのことが好きです。今すぐに認めてほしいなんて言いません。お二人の確執がはなにかもわかりません。ただ、もう少し見守ってほしいんです」「……そうか」杏寿郎はなにも言わなかった。だが、これだけ弟の嘆願をそれでも受け入れたくないのは彼も初めてのことで。わかっている、猗窩座自身素行はよくないが千寿郎をちゃんと見ているし守ろうとしていると。……わかってはいるのだ。「(すまない千寿郎)」それでもきっと、自分は認めてはあげられない。不甲斐ない兄ですまないと思いながらも、やはりどうにかして別れさせたいという考えが頭を占めていた。