いまごろ日本は夜の6時くらいかな、などと考えているころ耳の奥へと意思疎通は響く。「ふむ、これは最初から考えておったようじゃの」 朝方というのに竜人の声は眠そうではなく、むしろ母性さえ覚える優しいものだ。その一言に、剣の柄を掴んでいた指は震えてしまう。「ウリドラはさすがに誤魔化せないね。2人ともちゃんと寝ているかな」「……うむ、気持ちよさそうな顔をして寝ておる。ふ、ふ、思わずわしまで眠くなりそうじゃ」 ふうと安堵の息を吐く。 これからすることは出来れば2人に見られたくない。「雄の声をしておるな。小僧と思うていたのに、いつの間にやら頼もしくなりおって」「そんなのじゃないさ。実は僕は怒りやすくてね、カッとすると何をするか分からない危険な男なのさ」 くつくつと竜は笑い、そして互いに揃って息を吐く。 朝方らしく気だるい呼吸は、ずっと離れた場所だとしても同じ種類だった。きっと彼女も同じように白い空を見上げているだろう。 だからなのか、いつもよりずっと素直な気持ちで彼女へ言葉を送ってしまう。「感謝するよ、ウリドラ。あの日、ザリーシュとの間を邪魔せずにいてくれて……ありがとう」「わしは人の機微には疎いがのう。おぬしには必要だと思うたのじゃ。理屈などではなく、勘に過ぎぬがな」 ありがたいと思う。 彼をあのまま野放しにしていたら、きっといつまでも引きずり続けていただろう。遊んでいるときも、そうでない時も。 それにもし竜人が彼を倒していても、同じように僕は引きずる。汚いことを彼女へ押し付けたことへ、ずっと負い目を覚え続けていたに違いない。 だからこれは僕のためにある舞台だ。 ひょっとしたら自己満足をするための酷い行為かもしれない。しかし、この道を引き返すことなど到底出来ない。 もう一度、僕は剣の柄へと手をかける。 そして一思いに彼を……。「……面白い話があるぞ。番となるための条件は、実はたったのひとつきりらしい」 その一言に、指の力はふっと抜けた。 狭まっていた視野は広がり、小さく芽生えた好奇心により竜人へと声をかける。「なんだろう、強さを示すとかかな?」「いや違う。死んでも構わない、と雌に思うてもらうことじゃ」 彼女の言葉に、もうひとつ僕の好奇心は広がる。 そしてなぜか頭のなかへマリアーベルを思い浮かべた。 半妖精エルフはいつも可愛らしく、本を読むときもたれかかってくる。あの小さな体重を覚えると、僕は日本であろうと夢のなかであろうと胸の奥から温かくなれる。 そんなことを考える僕へと、ウリドラは優しい声で囁きかけた。「子を産むことは危険なことである。だからこそ、この相手ならば死んでも構わないと雌は思う。そして初めて番となれるのじゃ」「つまり選ぶのは僕ではないということだね。そう聞くと肩の力まで抜けてしまうなあ」 くすりと竜人と一緒に笑った。 そう、いつもと同じなのだ。いつだって少女の好奇心により道は決まり、そしてマリーの気まぐれで僕と手を繋いでくれる。 ふと気がつくことがあり、先ほどと同じように空を見上げて問いかける。「ウリドラ、まさかと思うけれど……正面から勝てると信じているのかい?」「信じるという言葉は好きでない。わしは願っておるのだ、人の子よ」 彼女の言わんとすることは分かり、そして僕は剣を手離した。 ならば半妖精エルフが握ってくれるよう、そしてイブとの約束――なるべく血を流さないという約束を守るため、この手は綺麗にしておこう。 空がもうすこし白けたころ男は呻いた。「やあ起きたかい、ザリーシュ。恐怖の夜は楽しめたかな」「…………」 一瞬、険しい顔をし、それから彼は眉間を揉みほぐす。激しい恐怖や緊張により全身は強張り、恐らくは猛烈な疲れを覚えているだろう。 とはいえ彼の戦闘力には大した影響も無いだろう。何しろ勇者候補とさえ呼ばれている男だ。「貴様……ここは、どこだ……!」「君の家からはずいぶんと離れている。ただ、歩いて帰れない距離ではないよ」 彼は油断なく周囲を観察し、他に誰もいないか調べているようだ。 無論、ここには僕以外に誰もいない。マリーやイブたちも寝入っているはずであり、この場は僕が勝手に整えたものだ。 ザリーシュが腰へ手をやると、そこへ剣があることに彼は驚く。無理もない。気を失っていたならば、恐らく彼を殺すことも出来たのだから。 目を見開く彼へ、僕は静かな声で話しかける。「お遊びのまま終わらせて良かったんだけど、どうにも君への恨みはまだ晴れなくてね」「恨み……お前を殺したことか?」 いやいや、そんな事で怒りはしないさ。これでも出会う女性からは大体殺されているからね。そのようなことは口で伝えずとも、僕の表情を見て分かるだろう。「見た目の通り、僕はまだ子供らしい。半妖精マリアーベルへ手を伸ばした君へ、そして女性への仕打ちの数々……どうやら僕にしては珍しく怒りというものを覚えている」 その言葉の持つ意味へ、ザリーシュは深い笑みを浮かべた。 女性を好きなように奪ってきた彼にとって、このような……奪われる男の表情を何度も見てきたことだろう。だからこう思うのだ、いつものやつか、と。 それは昨夜の悪戯よりもずっとずっと分かりやすいものであり、だからこそ彼の顔から恐れの感情は消えてしまう。「大切な女性をね、守りたいと思うのさ。君の周りにいる女性のように、泣かせることなど許せない……なんて口に出してしまうと臭い言葉になるね」「はっ――生身を持ってから随分と分かりやすくなったなぁ。なに、俺は奪う者だ。寿命を迎えるその日まで諦め続けろ、幻影」 こちらにとって楽しいホラー回は終わり、彼という強大な化け物と剣を向け合う。 それはきっと僕のわがままであり、魔導竜の望むことでもあるだろう。 逆光のせいか彼の目は猛獣のように輝き、迫力ある殺気にさらされた本能は「逃げろ」とただ叫ぶ。 しかしマリアーベルにとっての悪夢が相手だ。 ならば済まないけれど、彼の旅はここで終わらせよう。 胸の奥にある感情の名を、僕はまだ知らない。 そしてマグマのように熱いそれは、間もなく名づけられる事をどこかで予感していた。