「そういえば、以前ひよこちゃんと牧場に行ったことがあっただろう? その時のこと覚えているかい?」「もちろん、覚えております」 私としては忘れたい思い出だけども。「そうか。実はその帰り際に気づいたのだが、私のポケットに、豚の排泄物が入っていたんだ」 ドキ。 そ、それってもしかして、あれのことだろうか。 ヘンリーに牧場に連れられた時、ゲスリーのゲスリー節がなんだか悔しくて、華麗なリフティングで足元にあった豚の糞をヘンリーの上着のポケットにシュートしたことがある。 固まる私の前に一見優しげに見えるゲスリースマイルが広がる。「何か、覚えがあるかい?」「い、いいえ。まったくもって、全然覚えなんてないです」 私は精一杯の笑顔で否定した。「そうか。あの時は、大変だったよ。何かの拍子でポケットから黒い塊が出てきたんだ。それに気を取られていたら、コロコロ転がったそれを思わず踏んでしまってね。そしてそれが糞だと知った。そのとき履いていた靴はすぐに処分したよ。私は家畜を愛しているが、どうやらその排泄物までは愛せないようだ。ひよこちゃんはどうだい?」「私も排泄物は愛せないですね」 私はゲスリーの当然すぎる質問に当たり前に答える。 親密そうに見えるのか、また周りの観客たちが興奮しているご様子だった。 まさか二人で親密そうに糞の話をしているとは思うまい……。「そうか。同じ家畜同士なら、それさえも愛しく感じたりするのかと思っていたが、少し安心したよ」 いや、もしかしたら、中にはそれさえも愛しく感じちゃう人はいるかもしれないけれども。 しかし私はこの話題を広げたくないという確固たる思いで、「そうですか」と神妙に頷いて終わらせた。 その後も、公開牧場デートは続く。 時折観客にヘンリーが手を振ると、「きゃあー」と騒がしくなる。 その姿を見るたびにヘンリーが、あの胡散臭い笑みを浮かべて私の耳元で「ほら見てごらん、あの家畜達を。私が手を振ると叫ぶおもちゃ見たいだろう?」と、定期的に囁いてくることを除けば比較的おだやかなデートだった。 そんな比較的穏やかな初デートを終えて、私とヘンリーは王都の人たちに見送られながらお城に戻ってきた。 大したことはしてないのだけれど、どっと疲れた。 見物にきてくれた人たちに手を振っていると、徐々に閉まって行く扉。大歓声に見守られながらの帰宅だ。それにしても、笑顔で手を振りながら扉が閉まるって、なにこれ。劇か何かかな。 そのうち扉の向こうからアンコールが聞こえてきそうでこわい。「ひよこちゃん、疲れてるみたいだね。手を貸そうか?」 そう言って、なんとゲスリーが優しげに私に手を差し伸べてくれた。 どうしたの、ゲスリーさん。そんな紳士みたいなことして。 一体どこでそんな紳士みたいな態度を覚えて来たの? 私は驚きつつも、断れる立場でもない。今この場所には私とゲスリーだけじゃなくて、いつもおなじみのゲスリー近衛隊が私たちの様子を伺っている。 私はありがとうございます殿下とか言って、恐る恐る手を置いた。「この床は滑りやすいから気をつけて」 といぶかしむ私にさらにゲスリーが気遣わしげな声が漏れた。 まさか、さっきのこのゲスリーは床が滑りやすから気をつけてと申したの!? 確かにここは大理石のような平な床だ。しかも磨きに磨かれているため滑りやすい。しかしあのゲスリーがそんなことを言うなんて……。「あ、ありがとうございます。殿下、でも、どうされたのですか? そんな風に仰るなんて、珍しいですね」 紳士なゲスリーに耐えられなくなった私が正直な感想を申し上げると、ゲスリーは気分を害した様子もなく笑顔で頷く。「以前、こういうよく磨かれた床で足を滑らせたことがあるんだ。確か、そうそう、学園の魔物を退治したときのことだよ。ひよこちゃんと話合いをしたその後ぐらいだったかな」 と朗らかに仰るので、少しばかり顔が青ざめた。 それってもしかして……私が床に油を垂らして磨いたあの時の、床!? 確か、胸糞なゲスリーにゲスン! って言って欲しくてゲスリーが歩くだろう床に、油を垂らして念入りに磨いた覚えがある。「ま、まあ、そうだったのですか。それは災難でございましたね」 私は内心の動揺を悟られぬように笑顔を貼り付けてそう答えつつ、ヘンリーの腕をとって進んで行く。 それにしても、私が今までヘンリーを懲らしめようと行ったささやかないたずらが、ことごとくヘンリーを不快にさせることに成功していたとは……! 私はその事実に軽い衝撃を受けた。 確かに、私はヘンリーにイタズラをしたけれど、なんだかんだでヘンリーはそんなものを華麗にスルーするんじゃないかと思っていた。 豚の糞も、滑りやすい廊下も、ヘンリーは、歯牙にもかけないんじゃないかと、そんな気がしていた。 そんなことを考えながら進むと、分厚い絨毯が敷かれたエリアになった。前方に大きな扉のある丁字路で、ここで私と殿下は分かれ道だ。「殿下、ありがとうございます。ここからは私一人でも大丈夫です。床にはご立派な絨毯が敷かれてますもの。滑ることはないでしょうし、それに殿下は確かこの後、評議会の皆様との話合いがあると伺ってます。そうなりますと、私の向かう星の宮と逆方向です」 ふふと笑いながら、ここまでで結構よというようなことを言うと、ゲスリーはさらに笑みを深めた。「いや、最後まで送ろう。評議会との約束まで少し時間の余裕もある」 な、なんだって!? ゲスリーが、まさかそんな婚約者みたいなことを言うなんて!? 本当に!? 本当に!? どうして突然そんな婚約者みたいなことを言うの!? なんか、さっきから衝撃的なことばかりだ。 あのゲスリーが私が仕掛けた簡単なトラップに引っかかってたり……。 私の、勢いで行った子供染みたイタズラに、困り顔を浮かべるヘンリー。 私が思っているよりも、もしかしてヘンリーは、普通の人、なのかもしれない……。 私と同じように、意に沿わない婚姻を嫌がり、豚の糞を汚いと思い、滑らかな廊下についうっかり足を滑らせたり……。 私はなんだかんだ、ヘンリーのことを特別な存在だと思いすぎているんじゃないだろうか。 人とは違う別の何かだと思っていて、それって、ヘンリーが平民を家畜と見ていることと少し似ているような気さえする……。 そう思うと、なんとなく申し訳ない気持ちになった私は、頷いた。「では、お言葉に甘えて。星の宮までよろしいでしょうか」 私がそう言うと殿下は頷いた。