とく、とく、と伝わる心音に癒される何かを感じる。 ほんの少しの汗のにおい。そして彼女自身の甘い香りは、ゆっくりと僕を落ち着かせてくれると思う。 促されるよう、思い出そうとしなかった過去へと思考をめぐらせる。 母はきれいな人だったと思う。 濡れたような黒い瞳をしており、長い黒髪をしていた。 どこか世界から一歩離れているような、不思議な魅力を持っていたと今にして思う。 しかし、そんな印象は覚えているというのに、母からの言葉はまるで思い出せない。 思い出せるのは……そう、いまのように母の腕に抱かれたときの事。 それをずっと、狂おしいほど待ち望んでいた。彼女から認識され、愛情を注がれるような瞬間へずっと恋焦がれていた。 だからこそ胸へ抱き上げられた時は嬉しく、己が誇らしく、また周囲が輝いて見えるほどだった。 カーテンは柔らかく頬に触れ、さらりさらりと幾重にも撫でてゆく。 映画で言うならエンディングを迎えたようなもので、いつ祝福の音楽が鳴り響いてもおかしくない。 しかしそこで、唐突に映像は途切れてしまう。 ぶつんと乱暴に切られ、まるで劇の途中で暗幕を降ろされたようだ。 このあと何があったのか……何か恐ろしいことがあった気がしてならず、僕の心臓は乱暴に騒ぎだす。 思い出してはいけない。 これは思い出してはいけない。 ごう!と響く風を切るような音に、そんな言葉が混じる。同時に身体はひどく強張り、じとりと粘ついた汗が流れてゆく。 幸いだったのはマリーが柔らかく抱きしめてくれていて、ほおと安堵の息を漏らせたことだ。 ぎゅっとしがみつくと、彼女は良し良しと撫でてくれる。 長いことそうして撫でてくれたおかげで、ゆっくりと身体の緊張は解けていった。 誰もいないはずの居間で、魔導竜は浴衣姿で柱にもたれかかり、膝をかかえて座っていた。 あれこれと身に宿るシャーリーから何事かを言われていたが、しかし彼女はじっと動かない。そうあるべきと彼女は決め、あえて傍観者でいることを選んだのだ。 黒曜石を思わせる瞳でふすまの向こうを見つめ、そして形の良い唇を開かせる。「ふむ、そやつが夏夜子、か……」 漏れた声は誰の耳にも届かず、潮騒に流れて消えてしまう。 時計の針はゆっくりと進み、もう夕食の時刻へ近づきつつあった。 疲れた旅人を癒すための食事は、きっと彼を癒してくれるだろう。いや、新鮮な魚介を初めて口にする彼女らこそ、一番に楽しむか。