「ええ。あなたの手紙の内容に報いたくて書いたものですから」 思わぬことを言われて、ミレーユは首をひねった。そんなにリヒャルトの胸に感動を巻き起こすようなことを書いた覚えはないのだが──。 (もっとたくさん話したかったとか、このまま帰るのは残念だとか、そんな普通のことしか書いてないはずだけどな) そもそも彼は普段から少し大げさなところがある人だ。今の発言もそうなのだろうと、自分を納得させる。 「ええと、とにかく、あの手紙は嬉しかったわ。リゼランドに帰ったらもう忘れられちゃうかもって思ってたから」 兄の身代わりとしてアルテマリスへ行くのは、きっと最初で最後の一度きり。その時は護衛として親しくしてくれても、時が経てば過去の任務の一つとして記憶も薄れてしまうだろう。残念だけれどそれは仕方がないと思っていた。だから、彼が来てくれたのが嬉しかった。 (──ん? でもさっき、確か……ひきつづき護衛とか言ってなかったっけ) ふと引っかかってミレーユは眉を寄せる。と、リヒャルトがぽつりとつぶやいた。 「忘れる……?」 「えっ?」 顔をあげたミレーユは、どきっとして口をつぐむ。リヒャルトがじっと見つめていたのだ。 彼はゆっくりと手を伸ばし、ミレーユの口元に触れた。 「忘れられませんよ。あなたみたいな楽しくて可愛い人のこと」 「へ……、あ……」 「そんなに記憶力の悪い男に見えますか?」 「うっ……ううんっ、みみみ見えないですっ」 動揺のあまりつい敬語で言い返してしまうミレーユを、リヒャルトは少し不思議そうな顔で見つめたが、やがて微笑んだ。 「クリームがついてます」 「へっ」 指先でミレーユの唇の端を軽くぬぐい、彼はそれをぺろりと舐めた。間の抜けた顔で見返したミレーユは、みるみる頰を赤くした。 (この人……相変わらずまぎらわしいわ! そしてあたしも相変わらず恰好つかなすぎよっ。子どもじゃないんだから……) この人のこれさえなければ、もっと心穏やかに仲良くなれそうな気がするのにと思わずにはいられない。 「俺のほうこそ、ひょっとして忘れられてるんじゃないかと思っていましたよ。だからあなたが笑顔で迎えてくれた時は嬉しかったな」 しみじみとした調子で言われ、ミレーユは意外な思いで目を瞠った。 「まさか。忘れるわけないじゃない。あんな強烈な経験、一生に二度とないんだから。それを一緒に過ごした人のことなのよ。あたしそんなに薄情者じゃないわ」 「そうでしたね」 口をとがらせて言い返すのをリヒャルトは微笑んで見ている。それでミレーユも気がついた。自分が薄情者と思われたようで心外だったように、彼も同じ思いだったのだろうか。もしそうであるのなら悪いことを言ってしまった。 「まあ、忘れられるっていうのは極端ですが、よそよそしい態度を取られるかもしれないと少し心配していました」 「ええー、そんなはずないでしょ。あなたって意外と悲観的なところあるのね」 目を丸くして言ったミレーユに、そうなんですよ、とリヒャルトは笑った。つられてミレーユも笑ったが、ふとくすぐったいような気分になって打ち明けた。 「なんか、親戚のお兄ちゃんが久しぶりに遊びに来たっていうか……こういう感じなのかなって、ちょっと思ったのよね。実際は親戚なんていないから、あくまで想像なんだけど」 リヒャルトは瞬き、軽く苦笑した。 「親戚のお兄ちゃん、ですか」 「だって、お客さんや近所のみんな以外で訪ねてくる人なんて、めったにいないんだもの。それでいて特別な人っていったら、親戚の人しか想像できないのよ」 「へえ……。でもそれって、かなり重要な存在に聞こえますけど」 「そうよ。もちろん」 ミレーユはうなずき、ふと扉のほうへ目をやった。 「ものすごくびっくりしたけど……、またあなたに会えて、嬉しかったわ」 扉をくぐって現れた彼を見た時の気持ちが、ゆっくりと甦ってくる。 「もっといろいろ話したいこともあったし。フレッドの親友になっちゃって大変だろうけど、見捨てないでやってねとか……他にもいろいろ……」 「いろいろ?」 「うん。舞踏会のダンスの時、いっぱい足踏んじゃってごめんねとか……。普通ああいう時って、女の人は足踏まないものでしょ?」 「まあ、そうですね。初々しくて新鮮でした」 あっさりと楽しそうに言われ、ミレーユは、ぐっと詰まった。 「わ、悪かったわね、初心者なんだからしょうがないじゃない。だいたいね、あれはあなたも悪いのよ。急にあんな展開になったら誰だって緊張して足踏みまくったりするわよっ」 謝るつもりが逆に怒ってしまいながら二個目のタルトにかぶりつくミレーユに、リヒャルトは驚いたようだった。 「褒めたんですよ。初々しいって」 「うそよ。何百回も足を踏まれた人が、踏んだ相手を褒めるわけないわ」 「何百回って……、それほとんど踏まれっぱなしじゃないですか。そんなには踏まれてませんよ。拗ねないでください」 リヒャルトが困った顔でなだめるが、ミレーユのほうも引っ込みがつかない。 「別に拗ねてなんかないわよ。どうせもうあんなこと二度とないんだし、もっと上手な人がいっぱいいるんでしょうから、その人たちと踊ればいいじゃない」 あの時は下手なりにとても楽しかったというのに、どうして今になってこんなふうにいじけた気分になるのだろう。彼に会えて嬉しいはずなのに──。 と、タルトを匙でつついていたら、そっと手をつかまれた。 「だったら、次に俺と踊る時には踏まないようにしたらいいじゃないですか」 「……次?」 「ええ。その時まで、他の誰とも踊らずに待っていますから」 思わぬことを言われ、ミレーユは目を見開いて彼を見つめた。 厄介事を運んできた使者を見たら、彼女は一体どんな反応をするだろう。ものすごく嫌な顔をされるのではないか。──はるばるアルテマリスから来て、パン屋〈オールセン〉に辿り着き、扉を開ける時まで気がかりはやまなかった。