「まだかかりそうですか?」
どことなく疲労感の窺える声色で聞かれ、玲奈はパソコンから頭を上げて背後に振り向いた。
声から感じたとおり、言った当人である琴葉の表情には幾らか疲れが見え隠れしている。
今日は早朝からふたりでターゲットの調査に向かった。
昼過ぎには帰社したが、別の案件でのデータをとるための調べ物をしているうちに定時はとうに過ぎてしまって、
社内にはもう、玲奈と琴葉以外は誰もいない。
社長の須磨も、ふたりにあとの戸締まりを任せてついさきほど帰宅したばかりだ。
「ん、まだとうぶんかかるかな。琴葉は? 終わった?」
「あたしもまだ…」
「そっか…。社長にはキリのいいところで切り上げろって言われたけど…」
できれば取りかかった作業は途中で放置などしないできっちり最後まで終わらせたいのは玲奈の元来の性分だった。
自分でも融通の利かなさは自覚しているが、中途で終わらせると気になって落ちつかなくなるのだからどうしようもない。
もちろん、そんな自分に付き合ってくれる琴葉に申し訳ない気持ちも多分にあるけれど。
「じゃ、ちょっと休憩しません?」
「いいよ」
「やった!」
心底からホッとしたように上半身を伸ばす琴葉に玲奈の口元も自然と綻んだ。
「ね、玲奈さん、もしよかったら屋上のほう、行ってみませんか」
「? なんで屋上?」
「あー…、えーと、流れ星、見れるかと思って」
急に何を言い出すのかと思った気持ちが顔に出たのだろう、苦笑い気味に琴葉はそう付け加えた。
「流れ星?」
聞き返した玲奈に琴葉が一瞬声を詰まらせた。
急過ぎたことと、調べ物をしながらも別のことを考えていたと玲奈に勘付かれたと思ったのか、気まずそうに肩を竦める。
「…今日ぐらいから、なんとか流星群が見れるってニュースで見たんで…」
「ああ…、…おうし座流星群だっけ?」
「そう、それですっ」
「見えるかなあ、今夜から天気崩れるって言ってなかった?」
「えっ、そうでした?」
流星群が見られることのほうに気を取られて天気予報までは気が回らなかったらしい、途端に琴葉の肩先が残念そうに下がった。
それを見て、玲奈の心の中に琴葉の望みを少しでも叶えてやりたい気持ちが湧いてきた。
「…とりあえず行くだけ行ってみようか」
「いいんですか?」
「いいよ。ずっと座ってて肩も凝ったし、休憩がてら、外の空気吸いに行こう」
玲奈の提案に、琴葉はうれしそうに華やいだ顔を見せると、大きく頷いた。
しかし。
屋上に出るとさきほどの玲奈の予想どおり厚い雲が空を覆っていて、更には近隣のビル街のネオンもあって星空観賞そのものが難しそうだった。
「あー、やっぱ曇ってますね…」
恨めしそうに夜空を見上げながら琴葉は溜め息を漏らした。
頭上に広がる夜空は、普段なら見えるはずの月さえ厚い雲が隠してしまっている。
「そんなに流れ星が見たかったの?」
柵に手を掛け、目線は上に向けながらもがっくり肩を落とす琴葉。
その琴葉と同じように玲奈も柵に手を掛けながら、そこまで星が好きだったとは思わずそう尋ねると、
肩先の落胆を落ちつかせながら玲奈のほうに顔だけで振り向いた琴葉が小さく笑った。
「…や、お願いごと、したいなと思って」
「願いごとって?」
「流れ星に3回お願いごとを言うと叶うっていうじゃないですか」
「それは知ってるけど、どんな願いごとなの?」
聞き返されることは想定内だったはずで、そのうえで素直に答えたはずの琴葉が玲奈の問いかけに一瞬躊躇を見せた。
「言いにくいこと?」
聞かれたくないことだったかと玲奈が引き気味になったら、琴葉はさっき見せた微笑みを崩すことなく首を振った。
「…いつまでも玲奈さんのそばにいられますように、って」
「…っ」
そんな答えが返ってくるとは思わず、玲奈は咄嗟に言葉に詰まった。
お互いの気持ちはすでに確かめあっているけれど、こんなふうに改まって言われることは想定外だった。
「なんでそんなこと…」
不意打ちだったぶん素っ気なくそう返すのが精一杯だった玲奈に対し、琴葉の声色は表情と同じくらいやわらかく玲奈の耳を、ココロを震わせる。
「あたしにとってはすごく大事なことですから」
大きな黒目がちの瞳に見つめられた玲奈の心臓が跳ねた。
恥ずかしさが先立ってまっすぐ見つめ返せず、何も答えられず、目線を落とすしかなかった玲奈の手をそろりと琴葉が捕まえる。
触れられた部分から伝わる琴葉の手の熱が優しくて愛おしくて、黙ってされるがままでいたら、当たり前のように指を絡められた。
琴葉はきっと、玲奈からの答えを待っている。
琴葉がどんな答えを望んでいるかなんて考えなくてもわかる。
なぜならそれは玲奈の本心だから。
言葉にしないだけで、玲奈もずっと思っていることだから。
絡め取られた指先からあたたかな優しいぬくもりが伝わる。
そのぬくもりを感じられるだけで、玲奈がどれほど言葉にし尽くせない気持ちを膨らませているか、琴葉は考えたことがあるのだろうかと思う。
琴葉にとって大事なことだと言うなら、それは玲奈にとっても大切なことでもあると、琴葉はわかってくれているのだろうか。
琴葉への気持ちが恥ずかしさや照れくささを薄れさせる。
そっと玲奈も指先にチカラを込めると、気付いたらしい琴葉からうれしそうな呼気が漏れ聞こえた。
「…明日は晴れるって言ってたけど」
「え?」
「天気予報。曇りは今夜だけで、明日は晴れるって」
唐突だったせいだろう、玲奈が何を言おうとしているかが読めずに困惑した琴葉の、その指先からも戸惑いが伝わってくる。
「だから、明日なら流れ星も見れると思う」
そこまで告げてようやく真意が伝わったようで、繋いだ指先から戸惑いが消えたと同時に再びチカラが込められた。
「ホントですか」
「うん。…でも」
「…でも?」
「もし流れ星が見られたとしても、さっきの願いごとは言わないほうがいい」
「えっ…」
そんな言い方では本意じゃない気持ちが伝わることを承知で玲奈は言った。
顔を上げて琴葉を見ると、玲奈の想像どおりに琴葉が淋しげな目で玲奈を見つめていて。
玲奈を見つめる琴葉の瞳が不安そうに揺れている。
自分がそうさせたとはいえ、繋がれている手さえ解きかねなくて、玲奈は薄く口元を緩めながら琴葉の手を強く握りしめた。
「それはもう叶ってるから、無効になる」
すぐにはその意味が通じなかったらしく、僅かに眉根を寄せながら首を傾げた琴葉だったが
ほんの数秒の間をおいて、理解が追いついたことを知らせるようにその頬が少しずつ朱に染まった。
「え、あ…、玲奈さん、それって」
「わたしはそのつもりだから」
それ以上は答えず、そっと琴葉の手を離した。
くるりとカラダを半回転させて柵に背中を預けて夜空に目を向けると、
隣からは手を離されたことへの寂寥と、どう答えていいかという戸惑いの混じった呼気が聞こえてきた。
「だから、もっと別の願いごとにしたほうがいい」
「別の、って…」
「ないの?」
顔を見ないまま、今度は玲奈のほうから手を伸ばして琴葉の手を掴む。
掴んだ瞬間は驚いたようにカラダを揺らされたけれど、そのあとで僅かに息を飲んだのが伝わった。
「……ずっと、玲奈さんと暮らせますように、とか」
「それもわたしがそのつもりだから無効」
「じゃあ、これからも玲奈さんと一緒にここで働いていられますように」
「それもダメ」
「玲奈さんと…」
「琴葉、さっきからわたしのことばっかり言ってる。もっと自分のこと言ってみなよ」
「…っ、じゃあ…っ」
ぎゅ、と、玲奈の手を掴む琴葉の手のチカラが不意に強くなった。
それに気づいた玲奈が顔を上げると、目が合うのを待っていたみたいに唇を噛んでいた琴葉が口を開いた。
「玲奈さんが、もっと、あたしのこと好きになりますように、って言います…っ」
「え?」
「あたし以外の人を好きになりませんように、あたしのことだけ見てくれますように、あたしのことだけ…っ」
感情が一気に押し寄せて昂ぶったせいで気持ちのほうが追いつかなかったのか、琴葉の声色が引き攣る。
涙声にも聞こえてぎくりとした玲奈は、咄嗟に繋いでいないほうの手を琴葉の顔に伸ばした。
「琴葉」
頬を撫でるように触れると、熱に気づいた琴葉のカラダが大きく揺らいだ。
潤んで揺れる大きな琴葉の瞳に玲奈の胸が鳴る。
吸い寄せられるように顔を寄せてその唇を自分のそれでそっと塞いだら、繋いだ手がまた少し強く握りしめられた。
ゆっくり離れてその目を覗きこむと、涙で潤ませながらも困惑が滲んだのが見てとれた。
「…やっぱり、流れ星になんて言う必要ない」
「玲奈さん…」
「琴葉が言ったこと全部、思ってることも全部、わたしはそのつもりだから」
真摯に告げた玲奈に琴葉が息を飲む。
その琴葉の目尻に滴が浮かんだと玲奈が気付いたときにはもう、その滴はぽろりと零れ落ちていた。
「ずっと琴葉のそばにいるし、琴葉以外の人をこんなふうに好きにならない。だから」
零れた滴を指と唇で拭いとると、琴葉のカラダが微かに震えた。
「だから琴葉も」
顔を寄せながら囁くように言ったせいで玲奈の呼気が琴葉の鼻先に触れる。
それに呼応するみたいに肩を竦ませた琴葉が、黒目がちの大きな目を涙で潤ませながら玲奈を見つめる。
「わたしのことだけ好きでいて」
玲奈の言葉を聞いた琴葉の目尻にまた滴が浮かぶ。
応えるように頷いたことでその滴は静かに零れ落ちたけれど、玲奈はそれを拭うことなく、声で答えなかった琴葉の唇をもう一度塞いだ。
――――― そのとき、厚い雲によって隠されていた夜空でひとすじの流星が瞬いたことを、ふたりは知らない。
END