「おめでとうございます、お嬢様。ご結婚されたとお手紙をいただいた時には本当に驚きましたよ。それで、こんなに早く戻っていらっしゃって大丈夫なのですか? 公爵様は? まさかもうケンカなされたんじゃ……」 温かな抱擁の後のマルシアのいつものおしゃべりに、オパールは泣きそうになるのを堪えて笑った。「もう、失礼ね! 公爵様はお忙しくてご一緒できなかったんだけど、どうしても確認したい大切なことがあってね。それにシーズンが終わって帰るはずだったのに、そのままお嫁にいっちゃったから、ちゃんとみんなに挨拶もしたくて。本当は公爵様と――旦那様と一緒に来たかったんだけど、それはまた次に機会にね。色々あって慌ただしかったから」 ゆっくり屋敷の中に入りながら、嘘ばかりを口にするオパールは自分が嫌だった。 それでもみんなに心配をかけないためには仕方ない。 だが嘘ばかりでもなかった。「トレヴァーは今、ここにいるの?」「はい。後ほどお会いになりますか?」「ううん。今日はさすがにやめておくわ。大切なことだからゆっくり休んで、明日にでもトレヴァーの時間がある時にお願いしたいの。明日の予定をトレヴァーに訊いておいてくれる?」「かしこまりました」 オパールは執事のオルトンに頼むと、今までと同じ自分の部屋へと向かった。 部屋はいつもでも使えるように整えられており、オパールは数か月ぶりに呼吸ができたかのように深く息を吐いた。「お嬢様、お帰りなさいませ! あ、公爵夫人?」「やめて、ナージャ。今まで通りでいいわ」 部屋の洗面室から出てきたメイドのナージャは、オパールを見るなり顔を輝かせた。 天真爛漫なナージャは礼儀がなってないと、よくマルシアに怒られているが、それでもみんなから可愛がられている。 オパールもその一人で、マルシアからはお嬢様が甘やかすからですよと、オパールまで小言をもらってしまうのだ。 本当に帰ってきたなと思うと体から力が抜け、オパールは長椅子に腰を下ろした。「お疲れですね、お嬢様。すぐにお風呂の用意ができますから、少々お待ちください」「ありがとう、ナージャ」 オパールが帰ってきた一報を受けて、すぐにナージャはお風呂の用意に取りかかってくれたのだろう。 その気遣いが疲れも忘れられるくらいに嬉しい。 しかし、続いた言葉にはオパールもどきりとした。「いえいえ、お嬢様が一時的にでも帰ってきてくださって、みんな嬉しいんですよ。もちろん私も! だって、公爵様と結婚なされたって聞いた時にはビックリ仰天でしたもん。この衝撃的結婚には何かあるって思ったものです」「え?」「だって、私と違って頭が良くて慎重なお嬢様がこんなに急いで結婚なさるなんて、よっぽどですよ。よっぽど、公爵様がかっこよかったんですよね?」「え、ええ。そうね」「どのような方なんですか? 公爵様って」「そうね……。初めてお会いしたのは三年前で一度だけ踊ったの。公爵様はあまり人付き合いを好まれなくて、めったに社交の場には出ていらっしゃらないから、それはもう浮かれてしまったわ」「まあ!」「それで、先日久しぶりに……再会して……気がついたら結婚してたの」「まあまあ! なんて情熱的なんでしょう!」 洗面室のドアを開けたまま声を張り上げるナージャの言葉に、オパールはゆっくり嘘を言わないように答えた。 するとナージャは勝手に答えを出したようで、興奮している。 罪悪感を覚えながら、次にもっと深い質問をされたらどうしようとオパールが困っていると、マルシアが湯を入れたたらいを持って入ってきた。「やっぱり、おしゃべりでお嬢様を困らせていたわね、ナージャ?」「ええ? だって知りたいじゃないですか、お嬢様の恋バナ」「こ、濃いバナナ?」「違いまーす! マルシアさんには乙女の気持ちはわからないんですよ」「もう、いいから早く湯を運びなさい!」「はーい」 マルシアに怒られても懲りた様子もなく、ナージャは軽快な足取りで部屋を出ていった。 オパールはいつものやり取りにくすくす笑う。 これこそ我が家だと思えた。「連絡もなくいきなり帰ってきてごめんね、マルシア。みんなにも忙しい思いをさせているわね」「何をおっしゃるんですか、お嬢様は。ご連絡などなさらなくても、いつでもお嬢様は帰ってきてくださっていいんです。ご結婚されても、ここはお嬢様のお家なのですから」「あら、ここはお父様のお家よ」「そういえば、そうでしたねえ」 ここ何年も伯爵は領地に帰っておらず、マルシアはそれを冗談にして二人で笑った。 それからマルシアは何か思い出したように、空になったたらいをポンと叩く。「そうそう、そうでした。オルトンさんからの伝言で、トレヴァーさんは明日の午後ならずっと書斎にいらっしゃるとのことですよ」「そうなのね? ありがとう、マルシア。じゃあ、午後のお茶は書斎でいただこうかしら」「かしこまりました。では、ご用意して書斎にお持ちしますね」「ええ、お願いね」 明日の予定を話し合っているうちにナージャともう一人のメイドがたらいを持って現れ、湯船のお湯もいっぱいになった。 そこでオパールはお風呂に入り、その後は夕食も軽めにすまして、ゆっくりする。 今まで当たり前に思っていた時間、待遇がこれほどに有り難いとは思ってもいなかった。 本当に自分は恵まれていたんだなと思い、それからこのままヒューバートと別れてもいいのだろうかと考える。(それって、まるで逃げるみたいよね……) 本来の負けず嫌いな性格のオパールは、だんだん悔しくなってきていた。 戦わずして逃げるなど、弱虫のすることだ。(それに、どう考えてもおかしいわよね? どうして私があんなに邪魔者扱いされないといけないの? あの天使様の医療費だって私の持参金で賄っているのよね?) 確かに不治の病であることは気の毒ではあるが、あの態度は酷いと思う。 別にひれ伏して感謝してほしいわけではなく、ただ敬意を払ってほしいだけなのだ。 公爵をお金で買ったという発言から、公爵家の人たちは現状をまったくわかっていないわけではないはずだった。 それなのにあの態度はやはり主人に倣ってのことだろう。(いくら不本意だからってねえ。こっちだってそうだっつうの!) オパールは思わずクッションをぼふっと叩いた。何度も。 すると少しだけ怒りが収まり、息を吸って吐いて、呼吸を整える。 ずっと屋根裏部屋に閉じこもっていたせいか、ストレスもかなりたまっていたらしい。 明日の朝は乗馬でもしようと決意し、そのためにもう寝ることにした。(まあ、とにかくお父様のおっしゃってたことが、今になってみてよくわかるわ。旦那様は、甘いのよ) やれやれとため息を吐いて、オパールは久しぶりのふかふか羽根布団にくるまって目を閉じた。 やはり疲れていたのか、そこからは考えることなく、あっという間に眠りに落ちたのだった。