「信じられないけど、こうして見たらもう信じるしか無いね。僕も触っても平気?」 どうぞ、と少女から身振りをされる。 半透明がかった淡い群青をしているものの魚は反対側が透けて見える。 ゆっくり指を近づけてみると、物怖じしないらしくつんつんと魚から突かれた。指先についた水はひんやりとしており、つい匂いを嗅いでみると清らかな香りがした。「気になるなあ。こちら側の世界にも技能レベルがあるのかな」「気になるわねぇ。たぶんこの世界に来るとき、私はレベル1のような存在だと思うの」 ふんふん、と頷きながら隣に座り……かけたところで朝食作りの途中だったことを思い出す。常識を覆すような出来事だというのに会社への準備を優先してしまうのは、さすが日本人だと言うしか無いね。 震災があっても歩いて会社へ行くような国民性なのだから仕方無い。「前にもそう言っていたね。となるとウリドラも同じ扱いなのかな」「彼女の場合は伝説級の竜族だからレベル1でも出来ることが多いのだと思うわ。というよりも、そもそもレベルという概念があるのか謎ねぇ」 うんうんと唸る彼女に分析を任せ、僕はフライパンに火をかけてから卵にひたしたパンを焼く。 砂糖を混ぜているせいで、じゅわっと音を立てて甘い匂いが広がった。「考えているところ悪いけど、紅茶は何がいいかな?」「うーん、この世界でもレベルの高い人がいるのかしら……あ、レモンが嬉しいわ。酸っぱいのは苦手だったのに、柑橘系の香りが最近好きになってきたの」 そう答えると、ようやく部屋へ漂う甘い香りに少女は気づいたらしい。 どうやら知識欲よりも食欲が勝るらしく、調理をしている僕のすぐ隣へとやってくる。いつもと異なるのは、水の精霊を後ろに連れていることか。「んーー、甘い香り。パンを焼いているの?」「もうすぐ出来上がるからね。これは卵を吸わせてから焼いているんだ」 へえ、と興味深そうに覗いてくるが蓋をして蒸らさないと。かぽりと閉じると匂いは薄れ、その間に紅茶を用意する。 お皿へ移し、ついでにバナナなどもテーブルに並べたら朝食は完成だ。いそいそと座る彼女の正面へと腰掛け、そして両手を合わせる。「いただきますーー」 待ちきれないようフォークを掴み、少女はぷすりとフォークを突き刺した。 メイプルシロップをかけたフレンチトーストは、噛むとふかりと千切れてしまう。ほかほかのせいで卵の甘みが引き立てられ、噛めばじゅわりとバターが溢れる。 ひとくち食べたとたん、エルフさんは「むふっ」と笑みを浮かべ、ぱたぱたとテーブルの下からは足踏みが聞こえてきた。「んああっ……! ふわっふわ、甘さが染みだして……! ちょっと、やめてちょうだい。朝からすごく美味しいなんて、本気で日本に住みたくなるわ」「うん、住んでいいよ。というよりも、ここは僕とマリーの家だと思っているけれど?」 そう言うと、フォークを唇に入れたまま薄紫色の瞳を丸くさせる。 もぐっ、と口内のものをゆっくりと咀嚼し、そして上目使いで見つめてきた。「い、いいの? 住んじゃおうかな。ねえ、ここに住んでも平気? あなたのお邪魔じゃないかしら?」「まさか。というよりも、ええと、住んで欲しいかな」 気恥ずかしさはあるものの、そう感じているのは事実だ。 彼女が来てからというもの毎日が楽しく、それは日本も夢の世界も同じこと。食事に、温泉旅行に、迷宮に、たくさんの遊びを教えてもらっている。 いや、それ以上に純粋にこう思うのだ。ずっと一緒に居て欲しいと。 少女はフォークを皿へ置き、そしてこちらへと手を伸ばした。 当たり前のようにそれを受け止めると、互いの指はテーブルの上で絡んだ。白く細い彼女の指は温かく、ジンとこちらへと体温を伝えてくる。 見れば色素の薄い肌は赤く染まっていた。「で、では、こちらに住まわせていただきます。私の家は今日から江東区になりました」「ようこそ、僕らのマンションへ。そちらの可愛らしい精霊さんも」 宙で漂う精霊は、尾びれを揺らして水滴を撒く。 ふふ、と互いに笑みを浮かべると彼女の親指がゴシゴシと僕の手を撫でてくる。それが何故か無性に嬉しく、僕らは口を開けて笑った。 この日を境に、エルフ族のマリアーベルは江東区に家を構えることになったらしい。