ぴくんと水面に浮かんでいた小枝が揺れる。 細かな波紋をいくつか広げていたそれは、やがてとぷんと本格的に沈む。 小枝の先には糸があり、さらにその先には釣り竿がある。しかし本を読んでいる少女はというと、そんな変化をまったく感じずに文字を追い続けていた。「マリー、引いてるよ」「え?」 声をかけてみると、ひょいとマリーは竿をあげる。やはり仕掛けはエサだけが忽然と消えており、温かい毛糸の帽子をかぶったマリアーベルは表情のとぼしい素の顔をする。表情を見るに、なにが起きたのかまったく理解していないようだった。「あら、餌が取れてしまったわ」「えーと、エルフの森で育ったんだし釣りくらいしたことあるよね?」「あるか無いかと聞かれたら、あると答えるのが正解ね」「……そっか、苦手だったんだ」「いいえ、苦手なんかじゃないわ。ただ今回はたまたま餌が取れてしまっただけ」 ぷらんと垂れた糸を指さして、ごく平然と少女はそう答えた。 それを苦手と言うんじゃないかなぁ。そんな言葉を飲みこんで、新しいエサを仕掛けにつけることにした。 せっかくなので釣りの面白さを伝えたいと思っているけれど、先ほどからまったく釣果があがらず、むしろ魚たちにご飯を食べさせている気がしてならない。 などと思いながら周囲を見渡すと、湖畔を包んでいる空は白く染まっておりいかにも寒そうな天候だ。 桟橋の先には屋根つきの休憩所があり、ここは釣りだけでなく談話も楽しめる場所でもある。僕らは頻繁に利用するので、従業員たちはいつも椅子やテーブルなどを綺麗に磨いてくれている。「寒くない、マリー?」「ううん、平気。だけどエサをつけるのだけは生理的に無理」 毛布とひざ掛けに包まれて、かすかに息を白く染めながら気難しいことをマリーは言う。ちゃぽんと再び水面に波紋を浮かべてから温かいココアをひとくち飲み、少女は再び古代文字に瞳を落とす。 そして僕はというと椅子に深々と腰かけて、冬景色に変わりつつある湖畔を眺めていた。 釣りは好きだけど、魚を釣ったときが一番好きなわけじゃない。風に頬を撫でられて、ぼうっと半分眠っているような時間を過ごすのが好きなんだ。黙々と山に向かって歩いたり、地図を少しずつ埋めていくことがきっと僕の生きがいなのだろう。 それと同じくらい、僕らの背後にいる薫子さんも新しい生きがいを探しているんじゃないかな。 テーブルに頬杖をつく徹さんの見守るなか、精霊に通じるというエルフ語を、まだ慣れていない舌ったらずな口調でつむぐ。あどけない顔だちに関わらず表情には真剣さが帯びており、オリエンタルな黒髪によってそれっぽい雰囲気がある。「んー、薫子は形から入るのが好きだからな。あの三角帽子を作るのに2週間くらいかけていた気がするよ」 そう茶々を入れる旦那さんに、ちらりと黒い瞳が向けられる。表情を見る限り「コスプレと思っているのでしょうか」と文句を言いたげだ。それから天井を見あげたのは「そんなに間違ってはいないですね」と思い直したようにも見える。 そうやって薫子さんは小一時間ほど火とかげの「呼びかけ」を繰り返している。火の精霊といえば日本に来たばかりのマリーでさえ気難しいという理由で使役をしなかった相手でもある。